今回初めてコミケカタログのCD-ROM版を買ってみました。
冊子版でチェックしても最終的にはサークルのwebを閲覧して、そのブースを訪問するかどうか決めるので、それならCD-ROMを利用したら便利なんじゃないかと思って、買ったのですが。これはやばいくらい便利ですね。
http://www.kyoshin.net/cd-rom/c69/
チェックリストをプリントアウトすればそのまま当日使えそうだし、検索や表示系も使い勝手良く、機能面で優れているのはもちろんのこと。僕が特に良いと思ったのは、サークル毎の情報量が冊子版より格段に充実している、データは後々まで残るということです。
冊子版だとサークルカットとサークル名くらいしかわからなかったのに(たまにはサークル名すらわからないもの・読めないものもある)、CD-ROM版では、サークル名・執筆者名・発行誌名・ジャンルのほか、サークルによっては「詳細」や「補足」欄にも記載があって、その情報量は冊子版を質的に圧倒しているとさえいえるのです。
また冊子版だと、当日現地に持ち込むけれど行列が動き出すと、スタッフが広げているゴミ袋にぽーんと投げ込むのが僕にとっての恒例で、データとして全く残らないものです。けれどCD-ROMはそういうことがありません。CD-ROMをとっておく余地のないほど僕の部屋は狭くないし足の踏み場もなくはありません。ずっととっておけるわけです。
当日現地で見かけた行列や、人が読んでいた同人誌が気になって、帰宅後サークル名で検索をかけたりすることもできるといった、いわば「コミケ後」の発見や出会いにとって有意義な基礎データとなりうるのです。
美麗なサークルカットの保存にもなります。「サークルカットだけは素晴らしかった」というサークル墓前の手向けにうってつけ。またカタログの表紙が気に入ったときもデータとして残せるのが嬉しい。その意味で今回初めて買ったのは我ながら良い選択だったように思います。
しかしCD-ROM版で唯一にして致命的な欠点は、サークルチェックにかかる時間にキリがなくなってしまったということでしょうか。情報量が多いばかりにそれらをいちいち閲覧しながらサークルチェックしていたら、きっと年が明けていることでしょう。
だからまぁ、冊子版を読んでマーカーチェックしたサークルだけをCD-ROM版で追チェックして、ふるいにかけ当日の巡回リストとしてプリント出力、というようなチャートに組み込んでいけばいいのかなと思ったりしています。

読売新聞の俳句欄を読んでいたら、俳人のコラムでフランク(セザール・オーギュスト・フランク)のバイオリン・ソナタについて書いてありました。
実を言うと僕は、クラシックでいうとショパンが一番好きで、その次にはいろんな作曲家が並んで競い合っているのですが(ドビュッシーとかフォーレとか)、その中でもフランクが頭一つ抜きんでて好きなのです。弦楽四重奏曲ピアノ五重奏曲前奏曲・フーガと変奏曲(パイプオルガン曲)が特別大好きで、こうして曲名書くだけで聴きたくなってしまってもうたまらないんですが。どうしてだろう、バイオリンソナタについてはあまり愛着がありませんでした。
もちろんCDを持っているんですけどね。改めて全曲を聴いてみて、どうして関心がなかったのかわかったのです。第一楽章の出だしがインパクトに欠けているんですよ。こう、迫ってくるようなかっこ良さがないというか。
言ってみれば、クラシックにハマってた高校時分の若造(僕)にこの上質な甘美とうっすらした憂いをたわわに歌い上げる音楽、コクのあるバイオリンの深い味わいなどはきっとぱっとしなく映っていたのでしょう。わかる気がします。
そしてこの年になって改めて聴くと、ああ、なんて素晴らしい曲なんだろう、バイオリン・ソナタ。こういうことがあるとは知っていたけれど、実際体験することになろうとは……。第三楽章なんてこんなにはっとするほど美しいのに。どうしてあの頃の僕は気がつかなかったのか、まことに信じられません(矛盾するようですが)。
クラシックという音楽は、聴くことを意識するのと、聴くことに身を委ねるののバランス感覚で成り立っているんだろうと思います。若い頃はとにかくたくさんの音楽を聴きたい、世界の広さをかむしゃらに測ろうとしているようなものでした、少なくとも僕は。
でもこうして今の年になって、車の中にフランクのバイオリン・ソナタのCDを持ち込んで、国道を走らせながら大音量。ひどく狭いながらも濃密でプライベートな空間で絶妙に生じる、研ぎ澄まされてまったりとした「聴くことに身を委ねる」感覚は、きっと。
車の座席にすっぽり収まる程度の自己。フロントガラスから見える程度の世界。下手にドアを開けて外へ飛び出すのは危険だということをそれなりの重々さでわかっている。そのうえで、運転というやるべきことをこなしつつ、意識の大半は何かを求めて車内を漂っている。そんな状況だからこそ"フィット"するのかもしれません。
車の中でクラシックを聴くのが好きになってしまいました。とはいえ、僕は車の運転がそんなに好きじゃなくて、用がなければまず乗らない、自分ひとりドライブなんてしたこともないような人間だから、「好きになってしまいました」なんて言われても困るんですけど。
ま、とりあえずお友達から。

僕はタバコを吸わないし大嫌いなのに、母親は構わずタバコを吸うし僕に受動喫煙を強いてきます。僕はいつでも「タバコが煙たいよ」と怒鳴り出したいのに、その衝動はどうしてかいつものど元あたりで消えてしまいます。タバコの煙害を除去するようなエアクリーナーも、買ったとしてもそんなに高くないだろうに、買う気すら起こりませんでした。
きっと僕は、長生きすることにそれほど価値を見出していないんだと思います。不健康や傷病に対する憧れがあるわけじゃなく、ただ、長生きしたくないという位相が明瞭に概念化されず、やむを得ず不健康や傷病と訳されているに過ぎないような感じ。
自分に対するあやふやで未必な殺意とでもいうんでしょうか。明確に断固として死んでしまいたいとは思わない、やっぱり死ぬのは痛そうだ。なんであれ痛いのは絶対嫌。かといって何が何でも生き長らえたい、健康を維持・増進するための方策を惜しまないというような気持ちもありません。
そういえば、先日見た「噂の東京マガジン」の、「若者の下流意識を調べる」というコーナーでインタビューを受けていた同世代の男性が、こんな風に話していました。
―「(そんな稼ぎじゃ)老後のことが心配にならない?」
―「いやぁ、そのうち死ぬんじゃないですかねぇ(笑)」
道行く誰もが漠然と自らに対する未必の殺意を抱いている社会、それはきっと「マッチ一本火事の元」の社会。誰かが運良く(悪く)マッチを"すって"死んでしまったとしても、みんなのマッチはずいぶん"しけって"いるからあまり死なない。未必の殺意は案外実らず"ずるずる"とみんな長生き、ひどくありがちな現実(オチ)です。
豊かな老後を若者に対しイメージとして、現実としてどんなに植えつけていこうが、告知していこうが、しょせん"予後"のこと、悩んだり考えたりしたって意味がない。僕らは何より今日の予定でいっぱいだし、明日の日程が終わる頃には"このイベントは終わっている"はずなんだから。
冬コミ、楽しみですね。今回はCD-ROM版を有効活用して、大胆不敵なIT戦術に打って出ようかと思います。
覚えてろよっ!w