もっとよく眠ろう。ちゃんと夢見よう。

まんがタイムきらら」2月号に連載している「姉妹の方程式」という作品に、こんな話が出てきます。

 プロの小説家である長女が、小説執筆の取材名目で高級料理を食べに行くという。経費は出版社持ちということで四女は不平を鳴らすが(その経費を家計に回して欲しいという意味で)、「食べたことがなければ書けない」と次女。
 それなら「殺したり殺されたりする話ばっかり書いている」のはどういうことかと四女は問うが、「大半の読者が経験していない事はテキトーでいいのよ!」と次女が答えるというもの。

経験したことのない事実にリアリティーをもたせようとすることは、それ自体「テキトー」であることから逃れることはできない。可笑しいんだか頷くべきなんだかよくわからない話なのですが(大半って……)。
経験したことのない事実や感覚がファンタジーになり、経験したことのある事実や感覚がリアリティーになるという前提に立つと、僕らはなんてリアリティーの獲得・増進について贅沢な環境にいることでしょう。
聞くところによると今日の経済社会は二極化しているのだそうです。かつて一億総中流社会であったものが、現在では富める者は益々富み、貧しい者は益々貧しくなっている。それに対応して商品やサービスも二極化し、金融商品や株取引、「セレブ」と形容される高級なサービスがもてはやされる一方、100円均一ショップや第3のビールと呼ばれる安価な雑酒が定着しています。
消費者の消費傾向の2極化とその拡大が、相互に矛盾することなくいっそう進展し、むしろ普段の生活はカリスマ主婦の提供する節約術で切りつめ、日常的に我慢を重ねて貯めてきた小金で高級な商品やサービス購入するという二段(自己内格差)消費の志向が強まっています。横並び意識の元かつて隆盛を誇った「中流」を、物心両面にわたりいかに効率よく徹底して排除するかということに、今や賢い消費者としての面目が試されているわけです。
低成長時代に突入して久しい日本社会において、知らずのうちにお金は稼ぐものというより、節約して貯めるものであるという意識に取って変わられ、生活レベルに応じたつつましい贅沢を善とする価値観が色褪せ、どれほど生活レベルが劣るものであろうと、貯めたお金さえあれば高級な商品・サービスを購入しても構わないとするような、それこそより良い人生なのだと歓迎するような、売買システムの道徳規制撤廃とそれを支える大衆的価値観の醸成と普及。
ぶっちゃけ僕らは、生活のある部分を節約(似非エコロジー)という大義の元犠牲にすることを厭わなければ、かつてファンタジーであった事実や感覚を拍子抜けするほどたやすくリアリティーあるそれとして成すことができるのです。高級フランス料理店のランチメニューからホテルの1日VIP待遇コース、海外旅行の門戸はドアごとひっぺがされ、ホリエモンによっていずれ宇宙旅行ですら異次元の夢でもなくなりそうです。
そのお金がどのようにして積み立てられたものであるかという事実が風潮的に隠蔽された上の、外部拡張ではなく内部縮小的なベクトルに乗って「お金さえあればなんでもできる」という意識の跋扈するこの社会は、個人レベルの古き良きファンタジーを駆逐し、相対的に"リアルっぽくない"コトが降格したファンタジーに配当されていく。とはいえ本家ファンタジーは虚構としての映画やゲームに単体として封じ込められ、その大仰さは僕らの肌身感覚を寄せ付けはしない。
そうして僕らの事実と感覚は、既に成っているリアリティーか、いずれ自らのものと成る暫定ファンタジーと、それ以外の「ありえない」何かによってキレイに峻別され、えげつない現在の吹き溜まりにて僕らはあるとき、ふと"思い出してしまう"のではないでしょうか。
「ああ、そういえばファンタジーって、夢見ることだよね」
若者が夢をもてない壊れた社会だとある人はいい、若者が夢をもたないから社会は壊れたとある人はいう。高度情報化社会に席巻された夢はその珠肌を執念深いまでに暴かれつまびらかにされ、1(実現可能)と0(不能)とにデジタル化された夢は憧れという主観との往年の蜜月を民主的な客観によって無残に剥奪し去られ、とうに萎縮してしまっていた夢は僕らの手の内に落ちてきたときから儚く明滅しているというのに。
それでもなお僕らには確かに抱ける夢があるんじゃないのか。正真正銘の。それは人を殺すという夢。人に殺されるという夢。
お金があろうがなかろうが誰にでも実現できるその夢はまさに社会革命的であり、おいそれと実現できないその夢はひどく魅惑的、自分とその身近からまず土俵に乗せるその夢はとても肌身感覚的です。まざまざと絶対的でどきどきするほど美しい夢本来の輝きを発して。
真面目で大人しい少年たちが罪の意識もなく殺人を犯し、インターネットで誘い合った見ず知らずの若者同士が練炭自殺を図る。なんでそんなことをするんだろう、僕はずっと本音の部分で不思議に思っていました。いくら辛いことがあったって、明日になればすっかり気にならなくなってしまえるくらい、僕らの世代は人生と自分自身について無頓着でいられるはずなのに。「どーでもいーや、そんなこと」という印籠で自分の本質ですら刀のさびにして一件落着してしまえるはずなのに。
彼らは本当になんでもない、どうしようもない夢を見ていたんですね。夢が見つからないからこそ夢見ることに焦がれ、恋に恋する乙女のように、ほんの些細な機会の訪れに途方もない夢を見出だし、いてもたってもいられずついと"実現"してしまった。
そこにはただ、純粋に夢を見抱いていたあどけない少年たちしかいなくて。そんなファンタジックなリアリティーは、暫定的なものとしていずれ僕らのもの(リアル)と成っていくのでしょうか。それについては僕にもよくわかりません。将来のことは僕には何も言えません。
ただ信じたいのは、夢は夢としてそれ自体絶対的で美しくあるべきものではなく、達成点ではなく、エンディングにもなりえないということ。夢とは不動の概念ではなく、自走する仰望。目指し、乗り越え、踏み入れつつなおも継続していく終わりなき行路。であればこそ、自らの足跡がどきどきするほど美しく、自らを照らす光と落とす影のまざまざとした絶対性に、僕は僕のカタチを思い知らされる。
殺し殺されるという夢がこうも少年たちを魅了するのなら、生かし生かされるという夢だって、同じように少年たちを魅了するはずなんです。どちらにせよ出来合いの夢は立ち行かなくなっているのですから。
この世と人間にとってファンタジーが存在する意義は、他人を想像することができる点にあると思います。リアリティーが存在する意義は、自分をわかることができる点にあると思います。僕らはファンタジーとリアリティーが混ざりあった"あいまい"な領域に漂うように存在しています。どっちつかずのどっちでもないから、僕らは夢を見て、夢から醒める。不可逆的に熔けあっているから、僕らは自分をわかるように相手を想像できる。
結局僕らは夢を見足りないということなのかもしれませんねぇ。とりあえずもっとよく眠ろう。うん、僕はもう眠ります。