天才はなぜ生まれるか

天才はなぜ生まれるか

天才はなぜ生まれるか

6人の天才(偉人)の人生を取り上げて、彼らは一様に多様な学習障害を抱えていた、だからこそ天才(偉人)になれたのだという、ちょっと眉唾なお話。
彼らは、健常な人間であれば当然備わっているはずの脳の情報処理機能が一部損傷していた、ということを著者は根拠をもって推測します。誰もがあたりまえにできるような作業を、彼らはこなすことができなかったのです。今でいう学習障害ですね。
そこで天才たちは、子供向けの伝記に書かれている通り不屈の闘志で障害を見事克服、するのではなく、つまり「できないこと」を「できるようにする」のではなく、それ以外の(機能を保全しえた)「できること」を工夫することによって、「できないこと」を補おうとしていたというのです。
普通の人なら「できること」が、「できない」ということは、言い換えると「できること」をひっくり返せるポジションを手にしているということです。あまりにあたりまえ過ぎて普通の人が問題にすらしなかったような「できること」を、まじまじと意識することができるということです。

 研究とは、要するに知的な創造行為である。創造とは、新たに過去になかったことを考え出すことにほかならない。そのためには常識の壁を打ち破らなければならない。これは、たやすいように見えてむずかしい。

それを、天才たちは打ち破らなければならなかった。過去になかった新しいことを考え出すしかなかった。それが結果的に世紀の知的創造行為と見なされていったのです。
脳機能の遺伝的損傷を補おうとする生理的な亢進作用。人間関係上の不幸を拭おうとする知性的な亢進作用。ただ生き続けるため、苦しく悩ましくある人生をそれでも豊かに、自分らしくあろうとしてきた人たちが、今、天才と呼ばれ、本能的な欲求に根ざしもがくように為され、そうして遂げられた成果が、今、偉業と呼ばれています。
両親の遺伝要素が奇跡的に組み合わさることで生成され、育まれる子供たちの個性。読み書き計算が困難なさまざまの学習障害は、劣っているのではなく両親にとってはどれをも等価な愛おしい個性の一部分であって(欲しいし)、むしろ他の誰にもできないような新たな発見や、奇想天外な発想を生み出す素養を持っているとすらいえます。
「他とは違う」ということ、それこそがほんものの個性。
普通の人が「できる」ことを、「できない」ということ。それは、普通の人が「できる」ようには「できない」ということに過ぎなくて、むしろそこから、何にも束縛されることのない、つまり普通の人が「できる」ようなやり方ではない無限の"できる"方法というものが広がっているのです。そこで何を手にするか、それは誰もが等しく与えられている人生の命題。
普通の人間の中のひとりとして個性を発揮しづらいでいるよりも、個性というもの、自分らしさというものが頼みもしないのにとめどなく溢れてくるような人となりは、あるひとつの天恵だと語弊なくいえるような時代が来れば、いいですよね。

 むしろできないことをスルーして、「それでも、ほかにこんなにできることがある」こと、障害があることは、ユニークな人間になれるチャンスなのだと実感することで、障害を代償している能力の発現を導くことこそ、障害の支援として真に求められていることだと、私には思われるのである。そして、「できる」ことが伸びていくなかで初めて、「できない」ことも「できる」ようになろうとする意欲もまた、培われていくのではないだろうか。

障害児教育に携わることで、教育というものの本質を嘗めさせられるといいます。これまでのように、障害児教育を養護学級・養護教諭という特殊枠に押し込めるのではなくて、一般の教師や生徒とで連帯的に取り組んでいく・関わっていくというような姿勢が少しずつ広がっているそうです。それは結局、障害児教育というものがやむにやまれず「個性教育」だからなのでしょう。実は羨ましいんですよ、みんな。
養護学級を少しでも覗いてみるとわかることですが、そのなかに同じ子はふたりといません。一度会えばその子のことを絶対忘れられません。それに引きかえ普通の教室はどうでしょう。同じような子ばっかり、よく見ればみんな個性的ではあるのですが、それでも何年も覚えていられる子に果たして会うことができるでしょうか。
個性というのは、社会的な定義や学問的な理論より何より、ある誰か特定の人に刻印された「できること」リストなのだから。「できないこと」リストではないのだから。それをきちんと他のみんなに見せびらかすことができること、すぐにちゃんとわかってもらえることの嬉しさは、なにものにも代え難いものです。自分が嬉しいという経験。それは幸せの原初体験なのでしょうねえ。(28/100)

 障害というと、ややもすると当人にとって一方的に不利益に作用するものと、とらえがちである。だが時として、それは通常にはない長所として、力を発揮する。歴史に残る「偉人」とは、凡人にはない資質に恵まれていることが珍しくない。機能の著しい亢進といえよう。
 生物学的に見て、機能亢進はそれだけが独立して生じることは稀であって、他の側面の損傷の代償である方が通常である。それはヒトの場合も例外ではないことを、エジソンの人生は物語っていると考える方が、はるかに自然である。

 古来、人間は子どもをどうして眠らせようとしてきたかというと、いちばん効果的なのは、怖がらせることなのだ。
 そもそも睡眠は、恐怖にもとづいている。夜をおおう闇の世界は、危険にあふれている。「怖い」と感ずる。その時、心の安全を保つ一番の方法は意識を失うことなのだ。だから親は子に対し、「お化けが来るよ、早く寝てしまいなさい」と脅す。その脅しの効果的な題材こそ、伝承民話にほかならない。
 子どもは少々怖がらせても、一向に平気なものである。あくる朝には、けろっとしている。そもそも眠りにつく前のことなど、覚えていないことがほとんどである。しかも、次第に「怖がることの快感」を味わうようになる。親と共にふとんに入り、自分自身は安全でありつつ恐ろしい内容のことを耳にするのは、なかなか楽しいことに気づく。

 こうした暴力事件が報道されるたびに、マスコミは「心の闇」という表現を用いる。しかし、それはとんでもない誤解である。闇というのは、ことばによって心の奥深くに沈潜した、一種のこだわりようなものであって、そんなものが存在したなら人間は衝動的な行動にはしることはない。実際には闇など全くなく、「まっ白」だから問題なのだ。