何かを伝えたい自分がいるということごとわかられたい

くだらないことを知的ぶって肩肘張って書いているものだなぁ。
これは僕の書いた文章を自身で読んでみて抱く代表的な感想。いい加減どうにかならないものかといつも思うのだけれど、どうにかなるものならとっくにコメント欄を開放しています。文章を書くのは割と好きな方だけれど、自分の文章だけはどうしても好きになれない。自分が好きではない文章をこうして日記にアップしているだけでも迷惑千万なのに、その上で好意的なコメントまで要求するというのか。そんな風に自分を落とし込んで考えてしまうのです。
ブログのように、他者に読んでもらえる可能性のある状態に自作文章を設置するという行為は、他者とコミュニケーションするという、ある種の欲求充足行為の一変化形として捉えられるんじゃないかと思います。最近読んだ「他人の心を知るということ」に書いてあったけれど、伝えたい意図や内容があるからコミュニケーションするのではなく、コミュニケーションしたいからコミュニケーションするのであって、伝えたい意図や内容は二の次であるばかりか、そもそも無いという場合も多いという(会話を録音して分析してみると脈絡のないモノローグの応酬だった)。
ブログとしてネットワーク上に何かを書くという行為。それは人々が日常を生きている中で、見つけ出し、発想するさまざまな思考の飛沫、その意味内容を表現したい伝えたいという欲求と、同方向で居並ぶ「他者に読んでもらいたい」という(それ自体独立した)欲求とが交わることなく煽り合い、併走している事態だと思うのです。そのバランス配分と総重量によって個々のブログに個性が付与されているというような。
たとえば自己実現という欲求充足ゲーム。まず実現すべき自己があって、それが現世的に実現されるべき性質のものならば、まずは表現すること、対外的に自己の意味・意図を表明(自己表現)しなければこのゲームは始まりません。自己表現[全体]という上位概念の元にコミュニケーション[特定の他者]とブログ(ネット上に書くという行為)[不特定の他者]が位置するという系列。
その本では、他者と共存するためにコミュニケーションするのだとも述べられています。ではなぜコミュニケーションを介して他者と共存関係を保とうとするのか。それはやはり自己表現したいからだと思うんですね。特定の言動に宿る意味・意図によって枠づけられつつも、限定されない全体としての自己を表現する、他者がそれをありのまま感じ取るための磁場を形成するのに、他者との共存空間は前提条件なのです。
何かを伝えたい自分がいるということごとわかられたい、他者と、他者の反応を受け取る自分とに対して。
そう考えてみると、ブログという変形コミュニケーションの姿が見えてくるような気がします。書くこと、その意味・意図を包摂した全体的自己(人格的なもの)の提示、他者が率直に感じ取れるための磁場(雰囲気)を形作り、他者の反応(コメント)を受け取ることで見えてくるもうひとつの自分。
僕が僕の書いた文章を好きになれない(とはいえ嫌いというわけではない)のは、書いた文章が気に入らないことよりも、書こうとしている自分の内面の不誠実さに心から馴染めないから。コミュニケーションが他者と共存するための1技法だとするなら、僕はブログを通して、自らの内面と"いさかい"なく共存するための1つばかりの"技法"を見つけ出そうとしている。コメント受付を忌避する僕にとって、"他者"とはただ自らの内に見出すほかないのだから。僕の内面を映す鏡として、迷走する「森の十字路伝説」は、僕のブログである限り、さんざ執着されながら迷走し続けることでしょう。
だからどうしたと言われれば、いい加減どうにかならないものかということです。無理に知的ぶって肩肘張らないと意味の定まった物事を書くことすらままならない、貧相で低劣で不安定な自分というものに。