「あるホテルマンが「すし屋がうらやましい」と言っていました。売れ残ったネタは冷蔵庫にしまえばいい。しかし、ホテルはその日に部屋を売り切らなければ無駄になってしまう「究極の生もの」です。ここに新しい市場がありました」

 戦後60年たっても、日本人には依然、まともな住居の確保が難しい。公営住宅は西欧諸国とは比較できないほど少なく、入居できても収入が増えると退去を迫られる。民間借家も家賃が高い。だから、建売やマンションの購入に追い込まれる。(略)
 不況下の無理な持ち家購入は、少しでも安い物件探しに向かう。業者も競争のために経費圧縮を図る。こうした負の連鎖で、床が傾く、雨漏りがする、建具がきちんと閉まらない――といった「欠陥住宅」がますます目立つようになった。強度偽装は、戸建て住宅の手抜き工事と同根であり、現在の住宅事情と住宅政策こそが、マンション偽装問題の本質である。(略)
 住居に不安がなければ、人は何とか暮らせる。医療や福祉にかかる経費はその都度消えるが、優良住宅という「居住福祉資源」は、整備されれば次世代に引き継がれ、暮らしや健康を支える社会資本となっていくのである。

 「(外で元気良く)遊んだ後は、心が野性に返ります。そういう状態で、書きたいっていう本能を刺激する白い紙に向かわせると、自然と創造力を喚起することができるんですね。書は、まさに人としての生き方を学ぶ総合学習だと言えます」

小学生のとき、周りの友達がみんな何かしら習い事をしていることに焦りを感じて、気紛れ程度に通い始めた近所の小さな書道教室。民家の一間を使って品のいいおばあさんが書道を教えるその教室に、同年代の小学生たちに混じって中学生くらいのお姉さんがいました。毎週2回くらい通って、お椀を右に回すのか左に回すのかその都度迷ってたお茶会があって。6級に上る頃に我が家が引越し、同じ市内でしたが辞めることになりました。
あれ以来、塾通い以外で習い事をすることはありませんでした。だから、習い事というと書道で、あのお姉さんのことが自然と思い浮かびます。半紙に筆を入れるときの楚楚とした姿勢、真剣なまなざし。何を話したとか、どんな人だったかとかは全然覚えていないのだけれど、年上のお姉さんを異性として意識した初めての経験は、書道という清逸で精神的な作法と分かちがたく結びついています。
書道がそうなのか、想いがそうだったのか、今となってはもはや判別のつくものではありませんけれど。