さくらむすび[後記]

そういえば、パッケージも白い箱ですよね。

この狂った作品において、僕が唯一現実的(仮想に侵食され尽くしていないという意味で)で等身大の感動を味わうことができたのは、瀬良可憐シナリオにおける邦彦との兄妹エピソードだけで、感情移入することができたのは、瀬良邦彦ただひとりでした。実際それ以外の登場人物は"人間"として認識することすら困難です(とはいえ彼も十分人間っぽくないんですけど)。
この兄妹はとある事情によって仲たがいをしていて、その原因を互いに自覚しています。「私が一方的に嫌っている」「嫌われる理由が自分にはある」、そういう風に理性的に了解しきって、好き嫌い以前の感情的な交流を拒絶しているのです。その事情は、文章化せざるを得ない物語であるがゆえに論理的なものですが、僕にも覚えがあるありきたりの兄妹というものには、論理的でないそういった事情というものが往々にして横たわっていて、それが原因で、ある年ごろから好き嫌い以前の感情的な交流を拒絶(あるいは回避)してしまうものなんじゃないかと思うんです。あいまいな仲たがいというものは、大抵の兄妹間にあるのではないでしょうか。
くだらないことでケンカしたり、浅ましいことで意地悪したり、"ずる"を親に告げ口したり、妹が苦しんでいるときに適切な助けができなかったり……。ギャルゲーの主人公のように、子どもの頃から妹に優しく接したり、ピンチを助けてあげたりして"お兄ちゃん子"に仕立て上げるフラグを立てることは、年が近ければ近いほど難しいものです。何しろ当時の自分は掛け値なしの"ガキ"だったわけですから。実際は少しくらいは良いことをしたのかもしれません、けれど僕にとっては圧倒的に、妹に対する酷い仕打ちや裏切りばかりが思い出され、今も折に触れ自己嫌悪してしまいます。
作品で描かれている、論理的な事情に起因した瀬良兄妹のそこはかとない仲の良くなさは、主人公の完璧すぎる(非現実的な)妹への接し方(愛情)によってやけに親近感を持って浮かび上がり、それは常々僕が抱いていた思いであることにまざまざと気づかされるのです。瀬良邦彦の視点に立って物語を進めることができないばかりに、自ら積極的に彼の心情を汲み取ろうとし、そうしているうちにどっぷりと彼に感情移入してしまっていたのです。
主人公と可憐が惹かれあう過程で、ふたりの間に立ちはだかる宿命的で形無き困難。例えば唯一の超大国になったアメリカに対抗する形で、欧州やアジア地域各国の関係が良好化し結束を強めていっている世界情勢のように、大きな困難を前にすると些細なもつれは自然解かれていく、そういうこともあるでしょう。邦彦と可憐の間にわだかまっていた根深い困難も、主人公と可憐が愛を貫こうとする際に立ち現れた困難の前で矮小化し、特にふたりを見守り応援する邦彦の清々しい心根を前にして、兄妹は初めて感情的に向かい合い、本当にわかり合える。
冷たい論理性を打ち払う温かい非論理性。邦彦の荒い息。ああ、なんて幸せなエンディングなんでしょう。そりゃ僕だって泣いちゃいますよ。主人公の将来や恋愛の行方が淡く不安定であることに引き換え、この作品において裏表なく満たされる唯一にして最良のストーリーは、瀬良兄妹にまつわるものであることにもはや疑いの余地はありません。正直、主人公の悪劣な性的嗜虐心に心身共にボロボロとなった可憐が、邦彦に助けられ、彼と真実の愛を育むというようなアフターストーリーを望んだって、きっとバチは当たらない。だって主人公は人間じゃなーいんだからね。