唐揚げの話

日曜日のGvGはけっこう激戦で、テレビを見ているどころではなかったのでちょっとしか見られなかった「ビフォーアフター最終回スペシャル」、なのでか知らずかあの鶏肉屋さんの唐揚げが妙に美味しそうで頭に残ってしまって、さっそく今日作ってみました。唐揚げ粉を買ってきて(鶏もも肉は小分けして冷凍してある)。
唐揚げというのは味が結構幅広い。スーパーとか総菜屋で売ってる唐揚げはイマイチだったりとか、居酒屋の唐揚げが予想外に美味しかったりとか。それなのに、ラーメンや餃子のようにそれ一品で看板に押し上げられるほどメジャーではないという微妙なポジションが、事情を複雑にしている気がします。「唐揚げが食べたい」と思ったときに買って食べる唐揚げは大体、期待度50%未満ということが多いんですよ。その点、粉から作って食べる唐揚げは同じ味になるし、なにしろ揚げたてを食べられるのでやはり、めっぽう唐揚げが食べたいときは自分で作るのが一番いい。というか無難です。
結局、どんな料理にしてもそうなんだろうけれど、唐揚げの味わいは"意外に"幅広い。僕の世代だと、遠足や運動会のお弁当というとたいてい唐揚げが入っていて、その当時は唐揚げ粉なんてなかったから、やれしょうがだお酒だゴマ油だ〜という面倒な料理の手順を踏まなければならなかったことを考えると、そもそも唐揚げの味の幅が広いというのは当たり前の話。
でも、冷凍の唐揚げは安くて(かなりの程度)美味しいし、唐揚げ粉はお手軽。正義を疑われない経済性や利便性の元、唐揚げが日常的な好ましい料理になっていったことは喜ばしいことだけれども、食べ慣らされていくことで逆にそれは"本当の"唐揚げではなくなっていくというジレンマがあるのではないかと。強いて言えば、"唐揚げの最大公約数的何か"。事実、「唐揚げが食べたい」と熱望するときに供給されるそれら市販の唐揚げは、どこか物足りないんですよね(僕だけの話なのかもしれませんが)。
スローフードとか地産地消、食育などと最近騒がれているけれど、それらの底流にあるのは、「古き良き=本物=私の味」を取り戻そうという、今さら身勝手な食欲のムーブメントに他ならなくて。"思い出の味"が現今悲劇的な結末を招来させているこのご時勢、その等式が成り立つ料理はとっても幸せなケース。「食料自給率を上げるために」「輸入農産物に負けるな」「食卓を囲んだ交流と教育」といった大仰な掛け声で自己満足しているのではなく、「食べたいものが食べたいんだ、文句あっか!」と開き直れた地表先に、たとえば僕の本当に食べたい唐揚げがあるような気がします。
経済性や利便性によって生み出される料理は、その優先順位を自動的に貶めてしまう(「なんでもいいんだけど、とりあえず唐揚げでも食べようか」という具合に)。手間が掛かる、掛けられる、掛けて作られた味を多くの人が知っているからメジャーになれる。唐揚げ大好き人間の僕としては、やはり粉に頼るのではなく、タレから試行錯誤していかなければならないのかなと思うものの。「カロリー高いしなぁ」と二の足を踏んでいるというのが現状。つまみとしてのボリュームとカロリー効率を考えると厳しいのが自分的に辛いところです。ま、豆腐に敵う料理はないんだけどね(毎日一丁食べてます)。