CDのケースから外し、裸のCD-ROMのままで何十枚とサブデスク上に積みあげてしまう僕の悪癖は、定期的に裸のCD-ROMを各々正規のケースへと戻す作業を要請します。そしてこの作業は、「この曲懐かしいな〜」とつい聴き入ってしまい、予想以上の時間を要してしまうのが常であったりもします。音楽の卒業アルバムのようなものですかね。
最新のこの作業で、規定どおり懐かしい音楽を見つけてしまいました。ブリテンの「キャロルの祭典」です。

キャロルの祭典~クリスマスの音楽

キャロルの祭典~クリスマスの音楽

音楽の卒業アルバムという意味では、まさにこの曲は僕にとって卒業アルバムの1頁を飾るにふさわしい楽曲。高校の合唱部の定期演奏会で演奏した曲なんですね。声変わりした男声を含む高校混声合唱では、そもそもこの曲を演奏する資格などないのではないかと今となっては思ってしまうのですが、それでも、発声能力の稚拙さや声色のあどけなさを考えれば、(多少悪い意味で)クオリティ的に適当な選曲であったようにも思われます。そこは音楽顧問の識見躍如といったところ。
グレゴリオの敬虔な旋律をひそやかに唱えながらロウソクを持って入場する「Procession」に始まり。無邪気な歓喜が待ちきれなかったように颯爽と開花する「Wolcum Yole!」。暗く沈潜し繰り返されるアルト、訥々と幻想的なソプラノのなメロディが、曲名通りの清冷なたたずまいを思わせる「In freezing winter night」など、全編にわたるハープの清冽な演奏も鮮やかで。可憐な溌剌さに雪が緩むように頬もゆるむ「Spring Carol」を経て、たくましい生の賛歌を揚揚と謳う「Deo Gracias」、そうして入場と同じグレゴリオ聖歌を唱えながらしめやかに退場していく「Recession」。今こうして聴くと、この純真で明浄な思慮深さにいたたまれなくなるような思いがしますね……。
合唱活動を通じて、中途半端に音楽演奏というものに携わってしまったばっかりに、ライブなりスピーカーを通してなり音楽鑑賞という態度について今日においても生半可な気持ちを僕が拭いきれないのは、いっそ不幸なことだというべきかもしれません。音楽を聴くという行為が、かなりの程度人としての生き様(ライフサイクル)と乖離した、自意識的で孤独な、消化され消逸するに過ぎないうたかたの感覚なのではないかと思うにつけ、音楽を演奏するという行為は、ライフサイクルの一部として、人間関係的で間主観的ともいえる、執念的なまでに温存され堅守される感性的なかけがえのなさを、堂々と構成していくものだという認識をいよいよ深めてしまうのです。
音楽を人生の重大事として覚悟していくことを望むならば、百万の語彙を持つ優れた鑑賞評論者を目指すよりも、たったひとつの言葉すら定かにできない演奏主体者としてあるほうが、技術の巧拙ではない、内実において無限大に満たされてゆく、そのさまを想像してしまうのをどうにもできないということが、僕をそんな生半可な気分に貶めてしまうわけです。
もちろん、全ての楽器を演奏することなどできるはずがないけれど、なにがしかの楽器(口笛だってカラオケで歌うことだっていい)を奏じることで自身を演奏者として置くことの経験は、音楽について主体的に、人生的に関わっていくことの大いなる近道にはなるだろうという確信めいた予感があります。
止めようと思えば気軽に止められるコンポ音楽と、止めようと思っても気軽になんて止められない、ひとかどの成立のために"自身が音楽によって翻弄されていく"運命を自らの意思で選び取っていくコンボ音楽。
要するに僕は、早いところ安定した社会的地位を獲得し、市民合唱団なり友人の携わっている私設合唱団なりに加入して、和洋古今構わず合唱曲というものに無心にうつつを抜かしていられる身分になりたいのです。こんな形而的な空間でアニメのサントラに関する意味不明の"言葉遊び"になどうつつを抜かしているのは本望ではないのです。うわーん。