「サクラ自身のがわには『死』の実体もなければ『豊作』『幸運』の実体もない。サクラは、人間が感じたり考えたりすることを、忠実に映しだす鏡面である、と言ってもよい」
 日本人はサクラにまつわるあらまほしきイメージを創作し、あるいは既存の象徴に手を加えて捏造してきたのではないか。
 とはいえ、桜の美には、人知を超えた魔性がある。桜の花を前に身の震えるような感動を味わったとき、人は我知らず自らの魂の物語を語り出してしまうのだろう。

 「6年生の算数の平均点が60点だったら、子供たちの能力の平均点が60点というわけではない。その学校の先生たちには60点の指導力しかないことを示しているのだ。60点を70点にするために学校がどんな工夫をしていくのかホームページなどで公表する。それが説明責任だ。教師の意識を変えるというのは、こういうこと。とった点数を子供のせいにするような意識を変える。教師の力量を上げるために。品川はテストをする」

 「私自身は、医療は政府が国民全員にきちんと提供するべきだと思う。だが、米国社会では、幸福を追求する権利は保障するが、その結果は保証するものではない――との考え方が支配的だ」
 要するに、<欲しいものがあれば、それぞれが主張や努力をして勝ち取ればよい。だが、何であれ、欲しいものを誰もが一律に手に入れられる仕組みを、国が用意する必要はない>ということらしい。米国では、機会の平等は保障されても結果の平等は保障されない、と聞いてはいたが、こうした考えが医療にまで及んでいることを知って、国民皆保険が実現しない背景がわかったような気がした。

アメリカで人工中絶の廃絶運動が盛んなのは、もちろん宗教問題なんだけど、生命誕生という最初歩の「機会の平等」を奪うものだからなんでしょうか。
無理やりにでも保証されようとする機会の平等と、死という結果の平等を保証する必要はないという思想。しかし、そもそも医療というものに、追求される幸福も、保障される結果もないのではないかと思うのです。誰もが望まずして病み傷つき、医療にかかずらうことを余儀なくされているのだから、そこで論じられる「結果」とは、決して成果のことではなく、事後でしかないはず。幸福を追求し成果を享受する、結果に責任を果たす日常の社会生活の埒外にある医療を、保障するシステムにそれと同様の優勝劣敗思想を注入していては、生きているという生理にすら不安を抱くようになってしまうのではないでしょうか。
まぁ、ダメな人間が死に易い社会システムというのは、当人にしても見送るほうにしても気楽でいいのかもしれませんけど。