うたわれるもの4話

奈落の底に落とされたかのような、ひどい回でした。何もかもがありえない。原作のせいなのかアニメスタッフがマズかったのか僕には判別できませんが。

  • ササンテに石を投げつけたとはいえ、アルルゥのような幼い女の子に斬りかかるほどのものか。まず捕らえるかなりして指示を仰ぐべきところだろう。あの兵士は人としてあまりにおかしい。頭の悪いやられ役の敵は必要不可欠な存在だが、いきなり出てきてバカ面晒すササンテといい、人知を越えて愚劣・低俗・理解不能な敵は物語自体を不真面目なものにしかねない。
  • いきなり斬りかかった兵士の刃からアルルゥをとっさに庇えるほどの、反射神経と俊敏さを備えた老婆がどこにいる。
  • 背中を斬られたはずなのに、その患部を床に当てながら寝ても痛くないのか。どうせ死ぬんだからどうでもいいのか。というか飲み薬より塗り薬だろう。
  • 本編を見る限り、村長であるトゥスクルが死んですぐに次の村長に選出されるほどハクオロが村民全員に信頼されていたとは思えない。ムティカパ退治を導き、畑の耕作に知恵を授けたとはいえ、全幅の信頼という意味ではむしろテオロの方が厚いだろうし。馬骨な経緯的にも、テオロ(村長)にアドバイスする村の相談役あたりがしかるべきだろう。
  • 村民が一丸となって館を襲う動機があまりに薄すぎる。農民が領主に反旗を翻すなどという大事を、村長とはいえ他人を殺された恨み程度のもので説明できるものか。例えば、飢饉の上にさらなる増税を課された(自らの生死に関わる問題)とかいうなら分かるが。何が目的の蜂起なのか全く見えず、常識的に考えればまず勝ち目のない戦い。ハクオロ含めただ感情に流されたという印象を拭えず、そのような軽挙妄動に走った村人やハクオロを首肯できない。
  • それなりに訓練を施されているはずの兵士相手に農民がまともに戦えているのはおかしい。まるで傭兵上がりのような武勇を示すテオロにしろ、鉄扇で敵を斬り矢を防ぎササンテの喉元を突き刺すハクオロにしろ。そもそもササンテまで殺してしまう必要があったのか。冷静に考えれば、ササンテを武力で威圧し謝罪と補償、村保全の約束を引き出すのが本当ではないか。朝廷の反攻を覚悟しての行動だというのなら、人質に取るべきだろうし。
  • ササンテを殺しておいて、ヌワンギはどうして逃がしてしまうのか。というより、あの状況でどうして彼は逃げおおせたのも不思議。村に縁のある者だし、監禁か、せめて館に蟄居するくらいの措置が当然ではないのか。
  • エルルゥの前では感情をあらわにし、彼女の足元で力なく伏せるハクオロというのも、シーン的に都合が良すぎる。長らく親代わりだったトゥスクルを亡くし意気消沈のはずのエルルゥが、誰に慰められることもなく、やさしい微笑みでハクオロに気を回してあげられるのか。また、3-4話になってエルルゥとハクオロの関わりが(1-2話に比べると)極端に少なくなり、トゥスクルが亡くなるシーンでも特別な(例えばハクオロの胸元を涙で濡らすとか)シーンもなかったこともあり、唐突でさも当たり前のように感じられる親密さの描写はどこか軽薄だ。

ゲーム、というよりギャルゲーを原作としたアニメは難しい、それはごく個人的な「僕が受け入れられるかどうか」という点において。ギャルゲーの主人公というものはたいてい、奇想天外で常軌を逸した言動を取ることが多いものです。それは物語自体を面白おかしくしプレイヤーを惹きつけるためであり、あるいはベッド上でヒロインに対し"奇想天外"で"常軌を逸した"性行為に及ぶことの予防線ともいえます。プレイヤーの想定範囲内でしか振れない物語や、揺れない濡れ場は、プレイヤーにとって退屈極まる、使用価値のないものに違いないでしょう。
主人公のそのような言動について、プレイヤーはいちいち「ありえない」と感じながらも、それがゲームであり、自らが主体的に行っている以上、彼の言動(と性質)をある程度受け入れる準備と、覚悟を必然的、前提的にわきまえているのではないかと思うのです。ギャルゲーの主人公が、理屈や論理通りに動くのなら問題ないけれど、理屈や論理に合わない、まさに奇想天外で常軌を逸した思想や行為に染まろうと、それがプレイヤーと形式的に一体となった主人公である限りにおいて、「ありえない」という当然の違和感はプレイヤー自身に差し向けられ、即座に形骸化するか、次第に無効化していく。自分が自分であるように、彼は彼でいいじゃないかという奇妙な落着気分が生じ、突拍子のない主人公にいちいち文句をつける気が失せてしまうのです。何しろプレイヤーには何より明確な"求めるもの"があるのですから。(もちろん例外はあるし、限度もある)
主人公に対する積極的な感情移入をプレイヤーにもたらせれば最善ですが、そうでなくとも最低限、消極的な無条件追認について楽観的に構えいていられることが、ギャルゲーやその制作者のアドバンテージといえるわけです。何しろ彼らはソフトを買っている、そしておそらく開封してインストールしてプレイするだろう(あるいは電源を入れてコントローラーを握るだろう)、いちいち経済理論も心理法則も持ち出す必要のない当然すぎる"待遇"は、プレイヤーの準備と覚悟を当然に要請し、当然に受行される。ギャルゲーと制作者の楽観性を保障するところです。
主人公の在りようと為りようについて改めて緻密な描写と説明を必要としないという意味において。ギャルゲーのアニメ化にあたりまず乗り越えなければならないテーマとはまさにこの点にあります。そして、アニメ視聴者にギャルゲープレイヤーほど明確な求めるものはなく、大概あいまいで意識されていないものです。ギャルゲーをアニメに変更するための作業行程には、このように非常に繊細で困難な描写上の義務と、視聴者が漠然と求めている(いた)ものを制作者側が掘り起こし、明確に提示するという責務が課せられるのです。
この自分理論に照らして「うたわれるもの」のアニメはどうなんでしょう? ここにきていきなり酷くなりましたね? という(100%手前勝手な)お話です。1-2話は原作未プレイの僕でも十分理解できたし、さらにいえばとても印象に残る優れたお話でした。「このアニメ作品はもしかしたら……」と期待を抱き始めていた矢先のこともあり、3話とこの4話を視聴しての落胆は小さくありませんでした。
本当にゲームをプレイしたい。もう夏まで待てないよ!(悪い意味で)