七夕ですね。たとえば想像してみてください。
病態が急変して転院の末に亡くなってしまった患者さんの、当月分の入院費を支払ってもらったときに、いったいなんて言葉を掛けたらいいものでしょう…。
お金と死にまつわるえげつない場面に立ち会ったりすると、「ありがとうございました」といういかにもきれいな言葉が、決して万能で、便利で、いつでも相手を救ってくれるやさしい言葉ではないんだということを、しみじみと思い知るのかもしれません。
言葉は人間が作り出したものだというのに、いつになったら人間は、言葉で自分たちのすべてと自らのすべてを語り尽くすことのできる言語を、完成させることができるというのだろう。ただ言語を使いこなせていないだけなのかもしれないけれど、使いこなすことのできない言語は、個人レベルにおいてひどく意味を果たさない。個人たる人間が言葉として使用することによって初めて、言語は命を吹き込まれてゆくのだから。言葉が及ばない気持ちを人が自覚したとき、表現の不能におちいったとき、言語はみしみしと減滅していくのではないでしょうか。
入院費を貰い受けることに対するありがたい気持ちと、申し訳ないという気持ち、相手をいたわる気持ちと、今後を励ます気持ちを、赤の他人が患者接遇の一環としてさらりと発することのできる、短くて矛盾のなくてきれいな言葉は、どこかに転がっていないものでしょうかね。
毎日、おじいちゃんおばあちゃんのしわくちゃな話ぶりや間延びした談笑、数を刻むトレーニングの声ばかり耳にしていたものだから、その近未来に前提されている死というものを、どこか現実味のない、遠い話のように思っていたのかもしれません。思いたくあったのかもしれません。
だって仕方がないじゃないですか、この僕が病院で働いているという事実ですら、いまだ実感がわいていないくらいなんですから…。かつて幼女はぁはぁで鳴らしたこの僕がですよ? 定期券使えばビックサイトまで安く行けるなとか考えているこの僕がですよ? 最早僕の現在進行形が不謹慎ですね。