tsukimori2006-07-08

焼き鳥が食べたいなあと思い続けて早3年、くらい経っているような気がします。焼き鳥というと、僕の場合は串に刺すところから作る焼き鳥のことで、決して焼き鳥専門店に行って食べたいということではないところがミソ。
ネギと鳥もも肉を買ってくるところから始まり、塩振って焼いて食べるまで一連の焼き鳥行程は、非常に手間がかかる割にあっさりと食べ終わってしまうので、よほど気が向かない限り作られることはありません。だからこそ、街中歩いているときに焼き鳥の匂いが漂っていたりすると、「それはちょっとあんまりじゃないか」と、心の内で憤慨しています。
ネギを割らずに串を通すことに心血を注いでいるひとときが、それはそれで幸せであったことを僕らは後世知ることになるのです。そこで鳥皮も忘れては、いけない。

自分の話したがっている相手が、自分の話をおおよそ「自身宛の話」として認識してもらえる1対1の関係(コミュニケーション)というものは、ずいぶん楽ちんであります。主語を省いて何かを述べても、(それは誰に対して言っているのだろう?)という相手方の初歩的な疑問を抱く余地のない、それと同時に話しかけるほうもある程度の確実性をともなって、相手に初言から意味を持って伝わっているという根拠を与えるからです。
オタクはひとりでいることが多く(なおかつそれを好ましく思っている)、そのせいか僕はずいぶん独り言が多くなってきてしまったけれど、独り言を意味ある言質としてシステム的に最大限保証した、1対1の関係性とは、つまりギャルゲーの対面ウィンドウシステムのことであるのだろうなと思うわけです。
主人公の独り言を阻害(共有)することにいつも懸命であり、どんな発言でも汲み取ってくれ、あまつさえ心の声ですらときたま"受信"してくれたりもする彼女たちは、主語を持たず相手に与えもしない個々対個々の千切れた群れに偏在している、陶然とした甘やかさなのではないでしょうか。
言ってみれば、ブログとギャルゲー主人公の独り言に大した違いはありません。述べることが伝わることを包含するお徳なセットは、事実的に伝わっているかどうかということはどうでもよく、伝わっているということをそこはかとなく感じられるだけで十分だという考え方に立つと、ブログはその可能性をネットが約束し、ギャルゲーはその事実をシステムが演出しています。
僕らは内容を伝えたいのではなく、ただ純然と痛切に伝えたいのだということ。粗末な能力であっても伝えたいという意思を最大限尊重してくれる世界に、浸っていたいのだということ。青春論と人生論と似非哲学と本物の雑学を十把ひとからげに、プレイヤーという非人称(あってなき存在)に向けてねちねち語りまくる主人公の姿に、共感できるとしたら、その内容であるはずが毛頭なく、それそういう有り様自体に対してです。だからこそ、単体としての作品名ではなく、ギャルゲーというジャンル(群れ)から離れることがなかなか、できないわけです。
「誰が?」という問いについても、明確に答えることすら困難。いつからか僕は、それが僕なのか彼なのか、僕らなのか彼らなのか、主語について断定する責任を回避しているうちに、本当にわからなくなってしまったような気が、します。