僕はなんだかんだ言って、minori作品が好きなのかもしれませんね。
BITTERSWEET FOOLS」はプレステの廉価版Verをプレイしていたし、 「Wind -a breath of heart-」「はるのあしおと」では感想を書きましたよね。あと、「ANGEL TYPE」についても実は最近までプレイしていたのですよ。
特別「minoriの作品がプレイしたい」と思っていたわけではないのに、何かギャルゲーがプレイしたいと思ったとき、「そういえばminori作品でプレイしてなかったのあったかな…」と手をさまよわせてしまうのは、きっと婉曲的に好きだということなのでしょう。そういうことなんでしょう。
ただ、次回作の「ef」についてはどうして七尾奈留なのかな、という致命的な疑問はありますが。
ANGEL TYPE」は、なんとも静かな物語でしたね。主人公の淡々とした精神病理や、内省的で諦観した性質とはいえ、それは自虐的な非日常に至るではなく、不器用なまでに直截に、危ういまでに冷静に、ただ"日常というものが描写されていない"。何か大切だったはずのものが、すっぽりと抜け落ちてしまっていることに、薄々気づかされながらも、それによって何物にも代えがたい何かをこの「ANGEL TYPE」という作品は、封じ込めることに成功しているのではないかな、と思うのです。
設定としてヒロインと日常を共にすることで、恋愛的な結びつきとその高まりをテキスト(理屈)以前に根拠付けるその手法は、恋愛ゲームではごくありふれたもので。「気づいてみたら恋してた」というフレーズはあさはかで王道ともいえます。それに対し、「ANGEL TYPE」という作品は徹底的なまでに冷ややかに日常性を排除しています。朝のない生活、夕方の登校、精神病と飲み薬、深夜の下校。僕らがギャルゲーの日常だと思っていた諸々の生活風景が、とことん否定されたその世界観は、ようするに日常をいっさい感じられない、不自然なのです。
日常的でないとはいえ、非日常というにはその空気はあくまで平静で穏やか、主人公は決してまともではないのに、その思想はあくまで道徳的で理性的。それらあいまいでアンバランスな安定性は、研ぎ澄まされた幻想や悲劇、夢といった使い古されたテーゼをひどく鮮やかに照らしだし、ひどくゆるやかに落ち着けてもくれます。僕らはきっと、不幸のなかで安定を得るよりは、幸福のなかで不安定となることのほうを、無条件に選びたがってしまうんでしょう。
日常が窮乏しているからこそ、思わず恋愛に飛びついてしまうのだとしたら、それは短すぎる物語を言い訳するものとなるでしょうか。主人公と世界にはあまりに欠乏していたのです、日常というものに対する憧れに。どこまでも単調に続く海原のかなたに、そんな憧れが象徴的に映っているのだとしたら、タイトル画面で聞こえてくる潮の音はまるで、繰り返される日常のつつがなさのよう。どきどきするような、その香り。
それは、喪失した憧れにもう一度手を伸ばしてみた、ただそれだけの物語。長いとか短いとかじゃなく、それでいいんだと、それがいいんだと、救われたような気持ちにさえ、なるのですよ。