本当のコスプレを味わうためには、コスプレイヤーの普段着をまず見なければならないのだ、とかいうようなことを、女子高生の一日看護師体験イベントに接してみてしみじみ思いました。朝、着崩して見汚い制服姿で登場してきた彼女たちが、昼過ぎ、きりっとしたナース服に身を包んで歩いているのを見かけたら、貴方、くらっときますよ実際。
着替えるところからコスプレは始まっているんです。会場に行って既に着替え終えているコスプレイヤーをカシャカシャしているだけでは、まだまだなんです。普段着から撮らなきゃ。着替えシーンから撮らなきゃ。

読売新聞より。

 私は舌打ちする人を見るのが嫌いだ。電車内で、中年のサラリーマンが舌打ちしているのを、よく見かける。マナーの悪い若者に押されたり、気に食わないことがあると、我慢できないようだ。
 なぜ、すぐイライラするのだろうか。きっと大人の仕事の世界は厳しく、理不尽なことがたくさんあって、ストレスがたまるのだろう。
 しかし、舌打ちは、自分の余裕のなさを周りに示すことであり、ただの八つ当たりにほかならないと思う。
 舌打ちを聞いて、気持ちのいい人はいない。結局、自分が白い目で見られることになる。舌打ちをして、いいことなんて一つもないのだ。
 マナーの悪い若者がいたら、誠意を込めて言葉で注意してほしい。それが尊敬できる大人というものではないだろうか。そもそも、八つ当たりされて、反省する若者などいるはずがないのだから。

舌打ちが八つ当たりに過ぎないという意見に納得。とはいえ、ラッシュで胸骨が手すりに押しつぶされそうになりながら聞く「本日もご利用いただきましてありがとうございます」という車掌の白々しいアナウンスに、激しく舌打ちしたくなってしまうのもやむを得ないところでしょう。実際余裕ないし、相手に反省させるために舌打ちしているわけじゃない。周りに敢えて白い目で見られることで、刹那自分を慰めているのです。

「いきている」
いまここにいるということは
きこえてる
てつだってる
いいわけしてる
るんるんしてる

「奇跡は起こらないから奇跡っていうんです」と彼女は言っていたけれど。僕は最近こう思うんです。自分という存在が、生まれ、生きて、いまここにいるということの奇跡を考えれば、これ以外の奇跡くらい、起こったところで、どうということはないんじゃないかと。

 僕はそこまでmixiに批判的になる月森さんの反応にぎょっとしますた(´・ω・`)
  mixiはいろんな意味で「一般人」ていうか、ネットにスレてない初心者の人が空気が違うのはしょうがないんじゃないでしょうか。
  ミクシは現時点で会員数約250万ほどいて、恐ろしいことにそのうち7割近くがアクティブユーザー(3日に一度はミクシを利用するユーザー)だそうなので、「ミクシ限定の話題をWEBで振る」人が結構多いのはむべなるかなという気がしないでもないです(たとえネット上じゃ少数派でも絶対数は相当な数いるってことですからね)
 個人的な経験談で恐縮ですが以前WEBサイトの日記のネタにミクシの話を出したら僕の人格を否定されるくらいの勢いの抗議をメールでいただいたことがあって、んで今回の月森さんの日記もそういう風とまではいかなくてもそれ相応にミクシ使っている自分にとってはちょっと悲しい見解で、やっぱりあのコミュニティ(ミクシ)って人によっては本当にそりに合わないタイプのコミュニティなんだなぁといまさらながら思ったり思わなかったりしたのでした

ごめんなさい。mixiについて特別批判したというつもりはないんですけども、悲しまれたのなら申し訳ないです。食わず嫌いの物言いなんて、好きな人は苦笑いして(あるいは憐れみの目で)スルーするような、気にする程度の価値もありませんから。
ただまあ、「むべなるかな」という、mixiとウェブの両方を運営している方側の事情はこの際置いておいて(実際僕には分かりませんしね)、ウェブでしか接点がない閲覧者が、mixi運営について知らされることの意味と心理を、ちょっと考えてみたのです。それは単刀直入に言えば、「悔しい」んだと思うんですよ。
例えばここにひとりの絵描きの人がいて、その絵描きの人のファンの人がいたとします。絵描きの人は作品を展示するウェブを長いこと運営していて、ファンの人はそのウェブに毎日のように足繁く通っていました。ところがその絵描きの人は、ある日、ずいぶん前からmixiを運営していたことをウェブ上で告白したとします。ファンの人はその事実を知ります。当然絵描きの人が運営するmixiですから、ウェブでは鑑賞することのできない秘密の絵・プライベートな作品が、そこではいくつも展示してあると思うでしょう。もちろん、絵描きの人にメッセージを送ってこれからmixiに入れてもらえば済む話ではあります。しかし、絵描きの人がウェブ上では秘密のままmixiを運営していたという事実は、変えようがありません。そうであれば、その事実を目の当たりにしたファンの人の心に、真っ先に浮かぶ感情の色は、なんでしょう? という話なんです。
これは批判ですか? 隠すならどこまでも隠しておいて欲しいことって、あると思うんです。そのファンの人だって、その絵描きの人が、プライベートや親しい友人に対しては、ネット上では公開しないような絵を贈っているだろうことはわきまえているんです。干支がデザインされた個人的な年賀状を頂くことができないことも、常識的にわかっています。第一、没になる絵が山とあるからこそ、絵描きの人の技術は今のように磨かれてきたわけですから。
けれど、mixiというのはちょっと無遠慮にネットワーク的で、ちょっといけすかなくプライベート的なんですよ。そのありようがちょびっとフキンシンで傍から見てるとなんだか癪に障る。少なくともそういうイメージを僕は持っているんですね。かつてあった俺ニュースにはDNA(世界)とRNA(個人)があって、どちらもネットワーク上にあって平坦的に閲覧することができました。有機的に繋がっていたと言ってもいいでしょう。もしRNAを現在のmixiのような形で運営していたら、その事実(ネットワークの断続)を公表していたりしたら、僕は俺ニュースにそれほど親近感を感じなかっただろうと思うんです。意味のない仮定の話ですけど。
ネットワークでは、明かすことも隠すことも全て個人の一存であるがゆえに、その"一存の数"を疑われるようなことは、あまり賢いとはいえないと思うのです。僕のネットワークの先端と、貴方のネットワークの先端が交差する領域、それがインターネット。触れ合う僕と貴方が交わす言葉は、世界を介して個人へ漂着する可能未来。だから僕のネットワークの別の先端で触れ合っている、別の相手とのことを伝える必要はないし、それはいっそ、貴重な触れ合いを希釈し、引き離し、反発させてしまう危険性をはらんでいるといえます。
この場所、この関係、そしてこの今。インターネットに真実と呼べるものなんてこれくらいしかないんだから。せいぜい大切にしたいなって思うのです。やっぱりね、ネットワークの子どもたちに空はふたつもいらないんじゃないかって思うんですよね。