そういえば、今日のお昼は串カツとミソカツでした。いつもご飯だけ弁当箱に詰めていって、おかずは職場近くの総菜屋で調達しているのだけれど、何も考えなかったらダブルでカツ。素敵。これで明日の試験は合格間違いなし!
試験なんて受ける予定ないけれど。

 「切実に帰属感を求めている愛国系の若者は、私がはまった10年前よりも増えており、ネットを通じて発散している」「大した競争もなく高収入を得ている層と、過酷な競争社会を生きる層との分化が進んでいる。後者の抱える先行き不透明感は、確かにナショナリズムと同調しやすい」
 だがそれよりも問題なのは、若年層の不安感が中韓や既存メディアなどの見えやすい敵を探していることだという。「本当の問題と関係のないところでうさ晴らしをしている。歴史問題が舞台になっているだけで、ナショナリズムでも愛国心でもない。中韓の若者の反日遊びとそっくりだ」(朝日新聞

今もテレビで終戦記念日っぽいドラマが放映しているけれど、日本が引き起こした戦争の、敗戦濃厚な終盤で悲惨な目に遭っている国民の姿を描いて、それは大多数、"自業自得"という一単語で括られてしまう運命にあるのではないでしょうか。
精神論だけでアメリカに勝とうとした日本は、"負けた"ということそれ自体がまさに最大の不幸であって、禍根であって、耐え難いことなのだと思います。戦争を始めたこと自体はある意味しょうがない。現にアメリカは今も戦争してるくらいなんだから。戦争は言語道断に絶対悪だけれど、今も昔もこれからだって当分なくなりそうもない現状を鑑み、ある程度折り合いをつけていかなければならない悪として、妥協した上で、けれどせめてもうちょっと上手い戦い方、最低限恥かしくならない程度にまっとうな戦略を遂行して欲しかったという"技術的問題"として認識したい、という願望こそが実は僕らの世代の戦後思想の底流なのではないでしょうか。
たとえば「提督の決断」の最終シナリオ「沖縄特攻」から始めて、沖縄を防衛・奪還したうえでアメリカと(無条件でない)満足のいく和平条約を締結するために、何百回というリセットを繰り返すというようなプレイを、プレイヤーに駆り立てているものが、戦後日本人にわだかまる"戦後思想"の有力な一面であることは確かでしょう。A級戦犯と言われている戦争犯罪者や、それ以外の戦争指導者とその関係者たちが、よってたかって馬鹿・愚鈍・気違い揃いだったという半ば確定的な疑いに対する、せつないあがきであり、みじめな反動。
戦争は悪いこと。悪い戦争をさらに悪く取り組んでしまったのがかつての日本。開き直れない、恥かしい悪者なんて洒落にもなりません。だからこそ、どうせ戦争に取り組むのなら理知的に、限定的に、感情的にならない程度でありたいよね、というような紳士協定に対する日本国民の無意識的な"憧れ"。憧れが実現して、"上手く勝っていれば"中国人や韓国人・アジアの人々にひどい目に遭わせることなく済んだのだという、"仮定に立った仮定"が導く"(偽)成功体験"。
妄想というものは得てして疑いきれないものであるということが、間接的に、戦争被害者としての日本の発言やその思想を国際的に貶めてしまっているのだとしたら、それは誰にとっての不幸なんでしょうねえ。
ヒロシマナガサキに原爆が落とされたのは誰のせいか。決断の遅れた日本政府か、原爆を作り出し実際に爆発させる計画を進めたアメリカ政府か。この二者択一は、スマートに戦争をできなかったことと、戦争を始めたことのどちらが悪いのかという二者択一にも通じていて。どちらか一方の選択肢を選んでしまえば、それはつまり原爆と、戦争を認めてしまうということに繋がり、認めてしまえば、人はそれといかに上手に付き合っていくかという問題に関心が移っていくものです。
だから僕らは選んではいけない。ただ原爆という事実、戦争という現実をじっと凝視する。考えるのではなく、感じる。考えたことはずいぶん忘れてしまうけれど、感じたことは結構忘れないものです。僕らはまずそういう問題について、忘れられない部分を持つことから始めるのがいいのかもしれませんよね。