学園アリス第6話「うちはみそっかす系☆?」

無意識的に録画しているけれど溜まる傾向にあるのが申し訳ない、アニメ「学園アリス」ですが。その中で僕が特に大好きな、今もふとあのシーンを思い出して泣いてしまうのがこの6話です。気が向いたのでその理由を書いてみたいと思います。
他の子たちのアリス能力は、早く走れたり役に立つアイテムを作れたりといった、誰の目に見ても役に立つ能力であるのと引きかえ、「特別能力系」のクラスには、影が踏めたりドッペルゲンガーが使えたり絶対笑ってしまう駄洒落を言えたりと、何の役にも立たない、しょうもない能力を持った生徒たちが集まっています。そしてそのクラスに佐倉蜜柑が配属されてくるんですね。彼女のアリスもまた、「アリス能力を無効化するアリス」という実に使いどころの難しい能力でありまして…。
人の役に立たない、誰にも評価されない、しょうもないアリス能力を持っているということは、つまり人の役に立つことができない、誰にも評価されない、意味のある能力を持っていない(能無し)ということであって、それはいわゆる子どもたちがいじめられる原因(あえて原因を求めるとすれば)そのものなんじゃないかと思うんですね。
たとえば勉強ができなかったり、運動ができなかったり、人付き合いが苦手だったり、そういった能力的に劣っている部分を持っている子に対して、ある子は、本当は大して変わらない優位感をいっそう引き伸ばすために、引き伸ばさずにはいられないために、いじめてしまいます。
「いじめは悪いことだけど、いじめられる子にも原因はある」と母親はよく言うんですが、僕には「勉強ができる」ということと「勉強ができない」ということ、「運動ができる」ということと「運動ができない」ということ、「人付き合いが得意」ということと「人付き合いが苦手」ということが全く同じ能力の内の優劣として測ってしまうから、そこに競争意識が生まれて、それをいまだ理性的に取り扱うことのできない子たちが、自然いじめという方向へと流れてしまうんだと思うんですね。まわりにとっては雰囲気として。
だけど本当は違う。「勉強ができる」ということと「勉強ができない」ということは別の能力であって、「運動ができる」ということと「運動ができない」ということは別の能力であって、「人付き合いが得意」ということと「人付き合いが苦手」ということは別の能力。「勉強ができない」という能力を持っている、「運動ができない」という能力を持っている、「人付き合いが苦手」という能力を持っているのであって、そもそも<できる><できない>で物事を測ろうとする判断基準・価値観がオカシイのだと、人の役に立たない、誰にも評価されない、しょうもないアリス能力を持っている「特別能力系」というクラスのありようがそう語っているように思えて仕方がないんですね。
確かに、社会の役に立てることは素晴らしいことだし、人に評価されることは自分をとても強くしてくれます。けれどそれは同時に、役に立てないことを劣っていることとし、評価されないことで弱まっている人があるということもまた、事実なのです。それらが相対性から抜け出しえないものである以上、宿命といえるでしょう。
親友の蛍や他のクラスメイトのように、社会の役に立ったり評価されるアリス能力を持たない蜜柑は、ある種の引け目や自信のなさをわだかまらせています。それまでも、周りはいい友達ばかりだし優しくしてくれるけれど、本当には打ち解けられない、どうにもならない辛さを彼女は感じていました。いや、僕自身がそうだろうと思っていたし、というより誰より僕自身がそう感じていたのだと思います。
しかし安藤翼に導かれて「特別能力系」のクラスに入ると、蜜柑は大歓迎を受けるわけですね。同じように人の役に立たない、誰にも評価されない、しょうもないアリス能力を持ちながらそれに引け目を感じるのではなく、いっそ笑い飛ばしてしまおう、人を楽しませようと互いに披露し合いながら打ち解けていく。華々しいのにしみじみとしていてあったかい気持ち。仲間がいるということ、その真の素晴らしさをかみしめるかのような、蜜柑の心からの笑顔と笑い声にあふれたあのシーンは、同時に、まるで僕自身に「わかってるんだよ」と慰めてくれているかのように、ゆっくりと、たっぷりと見せてくれて、僕はもうどうしようもないくらい涙がぼろぼろこぼれてしまうのです。
確かにそれは同種の人間の慰め合いに過ぎない、別の意味ではネガティブな姿なのかもしれません。でも僕は思うんです、ネガティブにポジティブをいくら掛け合わせたところでポジティブにはなれないけれど、ネガティブにネガティブを掛け合われればポジティブに変われる。いじめは被害者が孤立しているからいじめなのであって、いじめられている子がふたりいたら? 3人いたら? いっそクラス全員がいじめられっ子だったら? そのときいじめにあっている(いた)ということは、みんなを繋げる、仲間としての代えがたい絆となっていることでしょう。
もちろん、いじめられたことのある子が別の機会でいじめる側に回ったりするという現実があります。でも、だからといって「だからダメじゃん」ではなく、「だけど素敵だよね」と思うことが大切で、そうみんなが思えるからこそそのみんなは、仲間たりえるのです。
蜜柑が他のアリス能力者を羨ましがる一連のシーンで、蜜柑がふつうに全力で走る中、物凄い速さで走れるアリス能力を持つ子、さらにワープ能力で一瞬のうちに勝負を制してしまうという徒競走が描かれています。それらは確かに凄い能力だし、社会で役に立つでしょう、人からの評価も芳しいものであるはずです。しかし徒競走ということを考えた場合、それはまったくひきょうで、ネガティブなものでしかありません。もしあの子たちが徒競走という競技をそうすることでしか参加できないのだとしたら、それはむしろかわいそうなことだと思えるくらいです。そして、あの子たちはその能力で人を楽しませたりすることはたぶんできない。
何事にも素直に全力で取り組むことのできる蜜柑は、アリス能力が"使えない"ものだからこそそう在れるのです。
「特別能力系」はその名のとおり、特別な能力を持っているんです。それは何より、この話がとても楽しく、嬉しくて、感動を与えてくれたことが何よりの証拠であるし、「勉強ができない」「運動ができない」「人付き合いが苦手」という能力もまた特別な能力であると、かけがえのないありようであるということを励まし、断定してくれているかのようです。なんて素敵な発想なんだろう、僕は心からそう思います。要するに島田満万歳!!