「自分のいのちを、みんなが自分で大事にすればいいんだよ」

1日の声欄で、受験に遅れそうな乗客を、バス停でない所で乗降車させてくれたバス運転手や、子どもが間違ってポストに投函した郵便を探し出し、一緒にまとめて、届けてくれた郵便局の話が紹介されていた。誰もがほっと温かい気持ちになったのではないか。
厳密に言えば、どちらもおそらく業務マニュアルにふれるだろうが、責める人はいないと思う。それは、同じルール違反でも「利他」の行為だからだ。
信号無視やポイ捨てが許されないのは、自分だけが良ければという「利己」以外の何ものでもないからだろう。(12/15朝日新聞より)

ロリコンファイルさんのid:kagami:20061208#p3を読んで、

レスキューは犬を助けるためにいるのか。あの時間に他の出動がなかったからと言う言い訳は成り立たない。出動のために拠点で待機しているというのも大事な仕事だからだ。徳島県民の税金は犬を助けるためにレスキューに支払われているのか。地元の住民があそこに犬がいるのが不快であるというなら行政は解決策を探るべきかもしれない。しかしそれは保健所やボランティアの仕事でしょう。野犬を捕まえて処分する部署と助ける部署が違うというのはとんでもない偽善ではないのか。テレビ局がワイプで犬の動向を伝えている同じ時刻に日本中のあちこちで多くの野犬が殺処分されているのである。最近の犬猫をチヤホヤする風潮を私は人々の心が心理学で言うところの代償を求めているような気がしてならない。

http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=31174&log=20061123も読んで、僕はこの問題は正しい/間違っているという価値基準ではなく、許される/許されないという価値基準で語られるべき事柄ではないかと思うんですね。
まぁ、とりあえずはっきりさせておきたいのは(本当はどうでもよいことなのだけれど)、勝谷さんは「崖の途中で立ち往生している馬鹿犬」を助けるのは保健所やボランティアの仕事だというけれど、それは「偽善っぽくないので癪に障らない」という感情的でしかない反論だということです。
レスキューを専門としない保健所、ましてや市民であるボランティアに、高い崖にうずくまっている犬を助けさせることが「仕事でしょう」と言ってのけてしまえるのは何より凄いし(きっとご本人も承知している暴言だとは思いますけど)、「野犬を捕まえて処分する部署と助ける部署が違うというのはとんでもない偽善ではないのか」という意見、そもそも「野犬を処分する」云々は今回の救出とはまったく関係ありません。救出の専門家が事に当たるほうが何を置いても成功確率が高く、そして救出側の安全性も確保できる、つまりそれが最善の方法だからこそレスキュー隊が野犬の救出に当たったというだけの話であって。それを偽善呼ばわりしてわざわざ保健所やボランティアに野犬の救出を委ねるべきだというのならば、敢えて最善とはいえない、成功確率の低い、安全性の劣った方法を取るべきだということであり、それは偽善どころか悪以外の何者でもありません。
この引用文の中でほぼ唯一意味の通る、「あの時間に他の出動がなかったからと言う言い訳は成り立たない。出動のために拠点で待機しているというのも大事な仕事だからだ」という意見は、冒頭で引用した「厳密に言えば、どちらもおそらく業務マニュアルにふれる」という部分に一致していて、けれども「責める人はいないと思う。それは、同じルール違反でも「利他」の行為だからだ」という見解、つまり今回の野犬救出については、許される/許されないという価値基準で語られるべき問題であり、利他的であるということの質的な分析が必要だと思うんですね。
もしかしたら、バスがバス停でない所で乗降車したばかりに最終目的地への到着が遅れて、その他の乗客に不利益が生じたかもしれない。郵便局員が本来業務を差し置いて子どもの手紙を探し回っていたばかりに、重要な書類の発送が遅れて不利益をこうむる人が出るかもしれない。バスはバス停に時刻通りに到着し出発すること、郵便局員は正規に手続きされた郵便を送り届けること、そういった状況と同じ文脈で、レスキュー隊はいつ要請を受けても即対応できるように待機していることは、たしかに大事な仕事の内でしょう。
しかし、バス運転手や郵便局員、レスキュー隊員本人たちにしてみたらどうでしょうか。受験会場に向かう受験生をバス停でない所で乗降車させないこと、子どもが間違ってポストに投函した郵便を探して一緒にまとめるのを「できません」と断ること、崖の途中で立ち往生している犬がいるという報告を受けて「人命のかかった救助要請がいつ来るかしれないので、待機していなければなりません。だから出動できません」と応答すること。それらは本人たちにしてみれば正直、辛いことでしょう。断ることが本来業務に適ったことであり当然だとはいえ、彼らも人の子である以上、感情があり、そうしなければならないのはとても残念であろうし、さぞ後味が悪いだろうことを予測せざるをえないでしょう。
あくまで受験生や子ども、犬自身の不始末に因るものであり、他の同じような失敗でしくじってしまった受験生や子ども、死傷してしまった犬もたくさんいるだろうこともまた想像に難くありません。けれどその場・その時・その瞬間対応を任されているのは他の同じ他人ではなく、今の同じ自分たちなのであって、自分たちの職能でどうにかできることである以上、将来なんらかの不利益を他の誰かに及ぼす可能性があるとはいえ、とにかくどうにかしてあげたい。そう思うのを止めさせることは誰にもできないと思うのです。
誰も、どのような仕事に就く者であれ、さまざまな思いを抱えています。その思いは、正しいとか、間違っているとかそういう基準で選り分けられるものではなく、せいぜい許されるか、許されないかというあやふやな基準で選り分けられればいいなあ程度のものであると僕は思います。徳島県民はきっとかのレスキュー隊の非本来的な行為を責めたりはしないでしょう。というよりむしろ「よくやった」「ありがとう」と感謝の念を抱いていると思いますし、それはテレビの前の視聴者とて同じことです。各局の大仰な生中継によって、視聴者は徳島県民ともどもレスキュー隊と思いを一にすることができた。その際、崖の途中でじたばたする馬鹿が犬だろうがヘビだろうが、もうどうでもよくなっていたわけです。視聴者はメディアというファストフード店で画一的な善意を消費したがっている、それは確かにくだらないですことですよね、まったくね。
確かに犬は畜生。少なくともあの犬は馬鹿犬と呼ぶにふさわしい。(県民の税金で運用されている)レスキュー隊が到着する前に、テレビで騒がれる前に落ちて死ねよこの犬が、くずくずしやがって、と僕も思わないではありませんでした。とはいえ、救助を待つ犬がいるという報告をレスキュー隊が受け、マスコミが嗅ぎつけてしまった以上、もはや、レスキュー隊が野犬の救助に当たらないことこそ許されないことになっていたでしょう。それは正しいとか間違っているとかではなく、どうしようもないことなんだと思うんです。この頃僕は事実っていうものがほとんどが感情を主成分として成り立っているんじゃないかと思えるくらいです。だから僕は勝谷さんは素晴らしいと思います。それはあの犬を「馬鹿犬」と呼んでくださったことです。
許される/許されないというだいぶ感情的な基準で測ってしまいたくなる事柄を、他人の感情を害することを承知で「俺はそんなの認められない」と、「間違っている」ときっぱりと声を上げることができる人は、その論理や理屈がどうであれ、立派なことだと僕は思うのですね。犬は馬鹿で可愛い。豚鳥牛は僕らの目に見えている範囲では可愛くあって欲しいし、僕らの目に見えていない範囲ではてきぱきと解体処理されていることを知っている。結局そこらへんには、僕は何が見えていて、何を見えてない振りをしているかという、偽善としかいえないような価値基準が厳然と設立されているわけで。僕らは「それってどうなのよ?」という疑念を差し挟むことすら、無意識化で抑圧している。それがどうしたと。韓国人が犬肉食ってることを日本人が嫌悪する無邪気さには全然萌えられないんだよと、つまりはそういうことですか?

ある朝のことです。フルタイムで働く我が家のシングルマザーの娘に代わり、小学3年の孫息子の朝の支度は、私がしていました。
朝食のデザートに、山形から届いたラ・フランスを出してやると、「おいしい、おいしい」を連発。「朝ごはんをおいしく食べて学校に行けるなんて、しあわせねえ」と言うと、しばらく間を置いて孫が言いました。
「しあわせっていうのは、もっと違うことなの! ぼくの考えでは、いのちがあることをしあわせっていうの」と。「まあ、すばらしい。校長先生が、朝の会でそういうお話をなさったの?」と聞けば、「2年生のとき、本を読んでいて、世界で一番大事なことは何かなって自分で考えたんだ。ぼくにいのちがあることがしあわせって考えた」
「そうね、だからお友達のいのちも、みんなのいのちも大事だね」
すると、また少し黙ってから言いました。「それも少しだけ違うの。自分のいのちを、みんなが自分で大事にすればいいんだよ」
9歳なりに精いっぱい考えているんだ。子ども扱いしちゃいけない。私はしばし言葉を失いました。
父親と離れて、アメリカからやってきたこのこの育ち行く先に平穏あれ。そう祈りながら、小学校に向かうランドセル姿を見送りました。 (12/15朝日新聞より)

9歳の哲学者さまがかく語っておられます。「自分のいのちを、みんなが自分で大事にすればいいんだよ」
利他的であるということの質的な分析とは、つまりそういうことです。「崖の途中で立ち往生している馬鹿犬」ですら助けてくれる社会だから、ゆるゆると「人生の途中くだらない理由で立ち往生している馬鹿人間」であるところの自分ですら、助けてもらえる可能性(やすらぎ)を、僕らは心のどこかで確証することができる。僕らはそう嗅ぎ取りたいからこそ、それをメディアはわきまえているからこそ、テレビ局はこぞって馬鹿犬の救出シーンをありがたくも実況生中継してくださるのではないかと、思うんですね。
利他的であることとはつまり、あわい利己(自己愛)を肯定してくれる雰囲気を肌で感じるということ。「自分のいのちを、みんなが自分で大事にすればいいんだよ」。尊敬するでなく、卑下するでもなく、僕は僕自身を僕のまま大事にしてゆけたらば、正しいことも間違っていることも、僕が僕を許される限りは、せいぜい生きてゆこう。そう、思うのですね。