半分の月がのぼる空7-8巻

橋本紡さんの「リバーズ・エンド」を最終巻にいたってようやく好きになれた経緯があるだけに、短編集だと知りながら購入してみたのですけど、僕は結局この「半分の月がのぼる空」という作品が好きになれなかったみたいです。好き? もちろん好きですよ。ところどころ気に入っているところはあるし、橋本紡さんの、「わかってる」部分と、「わかりっこない」部分の間に挟まれた、子どもたち自身が言葉で説明できない、頷くしかない他愛のない大切なしぐさを、繊細に、ときに無邪気にからかいながらもやさしく描くようなテキストは、たまらなく愛おしい。
秋庭里香がただもうどうしようもないくらい美しくて、性格がひねくれているところなんか胸が締め付けられるほどかわいらしくて。けれど、そうであるならいっそうあってしかるべき、醜い部分や、見苦しい部分がいっさい描かれていない、見目麗しいテーマを縁の下で支えていそんな部分をいっさい読者の想像に委ねてしまっている、その白々しいファンタジー性がむしろ残酷で、僕には物語や人物、個々のエピソードというより作品としての存在そのものが痛々しいのです。こういう作品であるということが、つらい。
ひとめ惚れとか、思春期とか、感傷とか、そういうライトノベルお得意の"道具"を使って、彼女の境遇をまるで記号化してさらりと掲示し、相対化して、生きるということの素晴らしさというか、生きているということの尊さを、少年少女たちの他愛ないしぐさとして、おかしくなるくらい誠実に描こうとしていることの、伝わってくるあたたかくなるような気持ちが、ふと虚構染みてくる瞬間、そら恐ろしい、冷たくなってくるんです。
つまり、彼女が美少女であることが許せないんですね。彼女が外見的に誰もが美しいと認める存在だということが、「半分の月がのぼる空」という作品の描いている、「生きる」ということを、ひどくセンチメンタルでフィクショナルなものとして、実存的な色彩を無くさせてしまっている。誰もがなんでもない、そうあるはずの「生きる」ということが、文庫本の生成り色に溶け出してしまっているようで、普段意識していない分だけ不安になってくる。結論を言えばもっと"ハメ"を外して欲しかったのだけれど(表現的な意味において)、しかしこの作品で橋本紡さんのテキストはどこまでも優しくて、僕はそれが嬉しいんだけれどもちょっと残念な、違和感のような気持ちを抱いてしまいます。「生きる」ということをオブラートにお行儀よく包んだら、もうそれは片思いとか自意識とかと一緒に詰め合わされる甘ずっぱいクッキーのひとかけらになってしまうというのに。
優しいだけでは生きていくことはできない、ということが「リバーズ・エンド」であるならば、生きているということは優しい、ということが「半分の月がのぼる空」なのだと僕は感じます。死という他愛のない大切な現実(しぐさ)が、映し身として無邪気に真摯にそこには共通して表現されているとはいえ、その相違は僕にとって大きい。だって僕が知っているのは、せいぜい「生きる」ということ程度でしかないのだから…。

川はずいぶん遠くから流れてくる。
その途中で蛇行したり逆流したりすることもあるけれど、結局のところ、やがて川は海にたどりつく。
ただ、そのころには、美しく澄んでいた水は薄汚れてしまう。
川底も見えないくらい、濁ってしまっている。(「リバーズ・エンド」1巻より)

僕は、挿絵が高野音彦さんだった本の著者が、たまたま橋本紡さんだったという「リバーズ・エンド」の、1巻が、不運にもかけがえなく好きになってしまったというだけなのだということを、たったそれだけのことなのだと、思います。事実、「リバーズ・エンド」は全巻とって置いてあるのに引き換え、「半分の月がのぼる空」は読み終えた1-6巻を既に古本屋に売り払っているのですから。