ハリー・ポッターと炎のゴブレット

ハリー・ポッターと炎のゴブレット 上下巻2冊セット (4)

ハリー・ポッターと炎のゴブレット 上下巻2冊セット (4)

3巻までは、妹が買ってきたのを読ませてもらっていたんだけど。その妹も嫁いでいっていなくなり、さりとて自分で買って読むほどのものでもないかなあと思いながら発売後月日が経ってしまった、「〜炎のゴブレット」。上下巻で3800円+税というのも大きすぎるしね。しかし図書館でたまたま見かけたので週末にかけて読んでみました。図書館ってほんと素晴らしいですね。僕はもう市民税を図書館の書籍購入費として納付することに決めましたよ!(とはいえ主に利用しているのは居住地と相互提携を結んでいる他市の図書館なんですが…)
このシリーズはなんて読みやすいんでしょうね。僕は小説とかを読むのがけっこう遅いんです、まぁ急いで読むのがもったいないというのもあるし、じっくり情景を思い浮かべるための丁寧な措置として、同じ箇所を繰り返し読んだり紙面から目を離してぼーっとしていたりすると、やっぱり時間がかかってしまう。でもこのハリー・ポッターという作品は、たった1回読んだだけでも十分なイメージが"すっ"と頭の中で沸き上がってくるんですね。重要なセリフが太字になっていたり、手紙の内容やメッセージが吹き出しのように囲ってあったり、ヴォルデモートのセリフの書体が変えてあったりと。言葉、しいては文章が一般的なそれよりもずっとイメージに近い位置に寄り添っている、そのための最大限の配慮がなされているんですね。
それは児童向けだから当然だといわれればそれまでだけど、バリアフリーの設計思想が障害者のみならず、非障害者にとっても使いやすく快適であるのと同じように、本を読むスピードが遅くて抽象的な概念を理解するのが億劫という障害を抱えている僕には、そういったイメージを手取り足取りしてくれる創意工夫は、とってもありがたいわけです。
また、本を読みおわった後映画を観てみるとよくわかるんですけど、映画化に当たって脚本が原作からそぎ落としたエピソードやセリフというのは、そのほとんどが、物語の内容・登場人物の気持ちをきちんと理解できるようにするための懇切な説明だったりするんですよね。映画だけを観ると、想像しなければならない、想像できるように仕向けられているそれらの事柄が、原作では実直に表現されている。それがあまりに直截すぎて雰囲気を損なっていると大人びた読者は言うのかもしれないけれど、僕は「ハリー・ポッター」の魅力とは、表現されない物語・世界観の謎を解き明かそうと好奇心をたぎらせたり、登場人物の気持ちを想像することで感情移入するというよりも、物語・世界観の謎そのもの<ファンタジー>というありように心を躍らせる、素直に表現されている登場人物の気持ちありのままを感傷する<ドリーム>ところにあると思うのですよ。
「ない」ところに水が注ぎ込まれるように惹き込まれるというのではなく、「ある」ところに酸素が溶け込んでいくように浸透していくんですね。「ハリー・ポッター」には豊かなものがたくさん「あり」ます。美味しそうなお菓子や豪勢な料理、厚い友情や微笑ましい恋愛、たくましい冒険心やくじけない勇気。そういう人が心身ともに幸せになれる要素をこれでもかと詰め込まれた作品を、まったく妬まれないということ自体が、僕はこの作品の偉大さを一片の誇張もなく物語っているのだと考えます。
第三の課題である迷路で、優勝カップに繋がる最後の1本道に辿り着いたセドリックとハリーは、原作だと始めから助け合い、譲り合いながらも結局同時にカップを手に取ることになるわけですが、映画版だと途中まで邪魔し合うようにしながら走っていくわけですよ。そこでアクシデントに見舞われたセドリックを、ハリーは悩みに悩んだ挙句、助けに戻ってしまう。セドリックが「僕を見捨てて優勝杯を取りに行くと思った」と言うと、ハリーは「行きかけた」と応えるんですね。最終的な行為(ふたり同時にカップを取るという)は同じだけれど、そこに至るまでに、原作の「ある」部分と、映画の「ない」部分が明確に現れています。
「ない」からこそ視聴者は気づかされ、感情移入させられる。「ある」というありのままの<ファンタジー><ドリーム>に心満たされ、ひたされる。やわらかな現実感と、あざやかな憧憬感。だから、当たり前のようだけれど原作では取り立てて想像する必要がないんですね。ことさら自らのイメージ戦略(?)に頼る必要がないんですよ。敢えて言うなら、それが物足りない人たちのために、わざわざ、原作の「ある」部分を「なく」して映画化しているんだと言うこともできますね。
人は往々にして、「なく」してみて初めて「ある」ことの大切さに気づくという伝統を固守するイキモノですから。「ない」ことから、「ある」ことを願うように感情移入することができるようになる僕らの情緒システムは、極めて人間的であると言い表すことができるけれども、決して見つからない「なく」したモノ探しを続けていくしかないみじめな存在なのだということも、またいうことができる。みじめという感情は、みじめじゃない自分のありようをつねに心に住まわせ、見つめさせているからこそ発生するのであって、その「こう『ある』はずだ」というありよう(限りなくゼロに近い可能性)が、「ハリー・ポッター」という作品の描く世界・キャラクター・物語にふんだんと煮込まれているゆえに、そう、同じ「ある」を共有していたからこそ、僕はたった1回読んだだけでも十分なイメージが"すっ"と頭の中で沸き上がってきたというわけです。ただ"再生"しているだけなんだもの。そうざんしょ?