「ああっ! こ、これは、隊長として・・・・・・あああんっ!! 部下のあなたたちの士気を高揚するために、いやいややっているのよ。だから、あんっ。勘違いしないで! あたしは本当は、こんなこと、好きでやってるんじゃないの!」

 ――ゴードン……あなたにもフェラ○オしてあげたかった……。
 ゴードンには、彼が何度も求めてきたにもかかわらず、フェラ○オを許さなかった。絵理子の心の中では、今もそのことが苦いしこりになって残っている。意味もなく出し惜しみをして、ゴードンを満足させてやれないまま逝かせてしまったという思いがあった。
 「満足して欲しいの。あなたたちには!」(略)
 口の中でペ○スが跳ねた。絵理子はゴードンのペ○スを思った。ゴードンは死んだ。彼のペ○スも、もう二度と硬くなることはない。
 ――死なないで! いつまでも生きていて!!・・・…
 その思いをこめながら、絵理子は隊員たちのペ○スをしゃぶりつづけた。(伏字は僕、月森が施しました)

あれ? 僕は泣いているの?
いや、くだらないんですけどね。想定内のくだらなさはとっくにあの小茂みの中に置いて来ておいたから、妙に面白かったんだよなあ。なにしろ9年前の作品だというのに、別に古臭いとか色褪せているとか感じることがないのは、エロ文化というのは基本的に進歩や変遷したりするものじゃないからなのでしょうか。挿絵がかなり古臭くて色褪せて感じられるだけになおさらです。
ただ、犯されるヒロインの高性能性というのか、容貌にしろ姿態にしろ性器にしろ、そういう物理的な完璧性(潮吹く理想値)を求められるのは、時代を感じさせます。普通なら絶対不可能、お知り合いになることすらできないような高嶺の花を、犯せることに最上の悦びを見出すのではなく、どこにでもあるような関係の、可愛いけれど普通の女の子を、ごく自然にどうにかできるようなポジションに、気がついたら居たというようなスタイルが最近は多いですものね。
言うなれば、恋愛バブル時代から恋愛格差時代へ。ヒロインとの距離を、アワが弾ける勢いで飛び越え、勢い良く跳びついた"はらはら"の時代から、越えられない壁を前にしつつ、そんなこと考えもせず、なんとなく身近で身の丈にあったヒロインとそっと手をつなぐ"じんわり"の時代へ。ヒロインや恋愛に対する美意識というのは、誰がなにかをどう提唱するかではなくて、誰もがなにかにどう感じてしまわざるをえないという、無意識的な不可避のセンス的な潮流なのだと思うのですよ。そういう風にしか真善美を認定することしかできなくなっている、という不可逆的な経路を辿って、僕らは時代の感受性に"当てられて"しまうのではないでしょうか。
とまあ、何を書いているのかよくわからなくなってきましたが。女の子の主人公が不特定の男性にやられまくる物語というのは、始めからベッドシーンで限りなく透明な主人公がヒロインをさまざまな体位でやりまくるエロゲーのようで、つまり"どこか"からは物語=体位でしかなくなるのかなと思ったりします。恋愛の延長線上にときおりSEXがあるのか、ベッドシーツの端に恋愛がときおり染みついているのか。僕はギャルゲーで、前者の"どこか"以前でうだうだ言っていたいのだという訳ですな。