橋本紡 ひかりをすくう

ひかりをすくう

ひかりをすくう

「ひどすぎます! 期待させるだけさせて終わりだなんて!」

美味しそうな食べ物があって、川があって、猫がいて、意味のないやりとり。やわらかくて、あったかくて、穏やかながら拍子抜けするほど物語の無い物語は、まさに劇中の女子中学生がそう叫ぶとおりの、橋本紡らしい、眩しくて眼を細めているうちに意味あるものが散り散りになってゆくような、それはそれでまあいーやーみたいな、のんきで無頓着な世界が佇んでいるというだけの。なんでもない小説。読んで浸る、浸るように読む。つまり食べるようなものなんじゃないですかね。そういう意味では、橋本紡のテキストは、パスタやサラダが美味しそうに描写されているよりも、実際美味しいのであります。だって、僕は本当に食べているのだから。

こんなふうに生きているのだ。
下らないものを手に持ち、つまらない理由で死にそうになりながら、薄汚れた川を、今も、そしてこの先も、ひたすら渡っていくのだ。
これが、わたしだ。わたしなんだ。こうして生きている。

この物語はあまりにも多くのことを語りません。離婚とか性格とか料理とか、哲ちゃんの人となりはあまりに不可思議だし、智子をそこまで追いつめたのは何なのか、どうして追いつめられなければならなかったのかということも、本人の性質の問題として処理し、具体的な事件が描写されるでもないのであまり納得がいきません。郷里の父親のこと、ご近所づきあいのこと(日がな一日家に閉じこもっている、どこの馬の骨とも知れない若い男女に中学生の娘の家庭教師を任せるか?普通)、それらふたりを取り巻く社会はあまりに穴だらけで、経済的にはあまりに生やさしい。智子と哲ちゃんがそこにそうしてあること自体、僕にしてみれば奇妙以外の何者でもないのです。
智子の一人称視点で語られる物語は、その主観性があまりにも薄ぼんやりしています。思考のベルトコンベヤーがあって、物事を「そうかもしれない」地点から、「そうじゃないかもしれない」地点に流さないまま、あいまいな断定というシールを貼って梱包してしまうような、そういまどろみのような視点のありよう、その病的なまなざしが何者にも勝る智子の症状の発現と証明であるのだろうし、であるからこそ、ここまでやわらかくて、あったかくて、穏やかな日常を小説として封じ込むことができたのではないかと思うわけです。
普通に考えておかしいこと、間違っていること、知らなきゃまずいようなこと。そういった常識は気ままな生活や人間関係を縛り妨げるもので、そんな規定から外れざるを得なくなった彼女が、いったい何をしてるのかといえば、それでも生きているんだということを、醜い感情をあらわにし、ぼろぼろになりながらも、泥だらけになりながらも叫んでいる。
とことん奇妙で、調子っぱずれで、料理のコツとか不動産屋のこととかくだらない部分で精一杯リアリティを持たせようとしても、その世界自体の事実性にとってはまったく無意味で、根本からありえないのはわかっている。ただ可笑しいだけでとっくにばれている、でも「これだけは」と伝えようとしていることがあって、それが確かに伝わってくるからこそ、僕はこの物語に癒されるんだろうと思います。
劇中、智子がひかりをすくうシーンがあります。光を掬うなんて物理的に不可能なことでしょう、まるで水か砂のように、掬った手のひらに光が溜まってるというようなことはありえません。でも彼女が光を掬おうという仕草をして、手を開いたら光が手のひらに溢れていれば、それは「ひかりをすくう」ことになるのではないか。つまり。意味。といってしまえば素っ気なくてつまらないんですが。意思。他愛なくもやさしいそれが、光となって、遮られることなく差し込んでいる。それを、僕は、すくう。