現在の愚痴が未来の自分に与するもの

とはいえつい書いてしまうんだけれども、愚痴をブログに書くというのは辛いですよね、誰でもない自分にとって。たとえば先日の飲み会で放った愚痴を居合わせた友達が録音していたテープを今聞かされたりしたら、それはもはや悪質ないたずらじゃないですか。自分の汚いものをいい機会に吐き出して、ちょっとキレイになれたような気がしていたのに、吐き出したものをいまさら突き出されて「お前のだろ、ほら戻せよ」と言われているような……。もちろん何の責任もないのに愚痴を聞かされるという迷惑をこうむった友達からすれば、正当な仕返しなのかもしれないけれど。
誰かへ迷惑をかけることを申し訳なく思ったり、なんらかの不利益や仕返しを恐れる前に、とにかく自損事故を意図しているかのようにブログでやっているというんですからね。ブラウザを開けばたいてい最初に映し出されるそれは、まるで目覚めたときに真っ先に目に入る、天井に貼り付けられた等身大のダメ自分ポスター。今日に放って、明日の自分へ聞かされていく愚痴という過去。時をかける八つ当たり。ブログに愚痴を書くという行為は、ゆくゆくは自分のブログを嫌いになるための、しいては自分を表現するということを臆病にさせるものであって、それはあまりにも哀しいことですよね。
ただ、意図せず過去の自分が未来の自分に向かった愚痴が、今日の僕の共感を誘い、発奮させるような巡りあわせが起こりうるかもしれません。昔はこんなことを愚痴っていたのかと、成長したなとか変わらないなとか、昔の俺になんて負けていられるかと、昔の自分との約束だからとか、かけがえのないターニングポイントになっていくのかもしれない。誰かに語って聞かせる愚痴は、もはやくさい口臭のようなものだけれど、ブログに書き留めておくのは、そのこっ恥かしい言い回しは、自分にとっては何より痛い、未来の自分を組成する大切な<つじつま>になっていくんじゃないかとも思うんですね。

未来のことを考えて思い悩んでもいてもしかたがない。
未来における自分の責任は現在の自分が負うべきだ。
そんときはせいぜい過去の自分を呪ってやるさ。
で、今の俺は未来の自分から呪われないよう最善を尽くすのみだ。
考えているヒマはない。
ただ動くのみだ。(「涼宮ハルヒの陰謀」)

過去の自分を呪うような今日の愚痴と、今日の自分を呪うかもしれない未来の愚痴。その狭間で、だから僕らはつねに移動し続けている<現在>に乗って、動いていく・動かしていく。つねに動いているから最早考えているヒマはないわけで。自分の書いた愚痴はそれとしてあまり拘泥してはいけないよということなんでしょう。最善を尽くすということは、そういうことなのかもしれませんよね。はた迷惑さについては、まぁここで何か述べさせていただくのも、おこがましいというものでしょう。