ヤマアラシのなんとか

僕がミキシィに取り組むことができないのは、きっと、成人後に友達の作り方を忘れてしまったからだと、思います。だから本当は、ミキシィに僕を誘ってくれて、未だに唯一の友達として登録してくれているお方には、深く感謝していたりします。
僕は、「自分から遊びに誘えない子ども」でした。友達が「遊ぼうぜ」と誘ってくれればほいほいついていくんだけども、僕から「〜して遊ばない?」と誘うことができない。母親もけっこう心配していたっけ。内気で消極的であることには違いないんだけど、特にいじめられた記憶はないんですよね。背はクラスで一番くらいに高かったし、成績もそれなりに良かったので、自惚れ的に言えば一目置かれていたのかもしれません。
子どもの頃から、それは現在に至るまで、流されるままに流されていた気がします。銃なんて全然興味もなかったのに、十数人の友達連中と一緒になって週末ごと自然公園でサバイバルゲームに熱中したりして、それがバレて先生に知られるところとなると、「(他の子はアレだけど)あの○○くんが!?」なんてお小言を頂戴するというような。でも、塾の同じクラスに、市内で1,2を争う"剛の者"がいて、「昨日のケンカでバットを腕に食らってさあ」とピンピン話すようなヤツに、ほいほいついていくようなことはしなかったけれども(当然だ)。
推薦でクラス委員とか、委員長とかやらされることも多かったなあ。別に責任感なんて全然なくて、やれといわれたからやるという文脈を外れたことはないんだけども、卒業文集の企画で「頼りになる人」アンケートで1位を貰ったのはうれしかった。まあ、いやな仕事を押し付けたやつらのせめてもの罪滅ぼしなんだろうけどね。
で、何が言いたいのかというと。僕は積極的に友達を作れない、友人関係をリードすることができないということです。なんとなくその場にいた人たちで仲良くなれて、その一味に僕がたまたま紛れこんでいたようなパターンが多いわけです。そういう意味で、ミキシィのシステムが僕は性質的に受け入れられないんでしょうね。「友達になってくれませんか」と頼んで、「嫌です」と断られたらめっちゃ凹みそうじゃないですか。しかも、友達になれないと閲覧ができないというんだから、いかんともしがたい。まあ、そういうことは滅多にないんでしょうけど。
コメント欄を消して、ブログで一方的にテキストを書いているのは、どうせ自分から友達になってくださいなんて言えないんだし、言ったところで拒絶されるかもしれないと恐れるくらいなら、誰も友達になりたくないようなキモくてイタいテキストを発表して、それでいて批判意見を抑制したいんですよね。そういう都合のよいひねくれでも、ブログという媒体なら読んでくれる人はいる"らしい"のです。それがなんともはや、うれしはずかしはないちもんめ。
つまり、なんであれ痛い思いをしたくないのです。

現代社会はね、自分で動いた者が、動いた分だけ、結果を得られるようになってるんだもん。やったもん勝ちなんだから♪」(萩野可奈@Canvas2〜茜色のパレット〜)

人生に積極的になれるか、世界に横着的になれるか。だからこそ僕は、負け組なんだろうし、貧乏なのは当然で、人生が敗戦処理まみれなんだろうと。かけがえのないという意味合いを、僕は実はあまり理解していないんだと思います。