天元突破グレンラガン第11話「シモン、手をどけて」

ニア萌え
正直、僕は飢えていました。正統的なボーイ・ミーツ・ガールに。だから、ありがとう。この話だけで当分食べていけそうです。
最近のアニメは、ボーイ・ミーツ・ガールを妙にいじくり回すことがリアリティあることだと勘違いしているようで、元来そうであるはずの、潔癖なまでに溌剌とした、純度100%のさわやか無敵、完膚なきまでの思春期ハッピー成分が、決定的に不足していた。そもそもボーイ・ミーツ・ガールとは、一般法は適用されず論理も成り立たない、青春という最高法規が司る恋愛裁判の冒頭陳述。都合が良すぎるとか、いくらなんでも展開早すぎるとか、いつの間にそこまで信じてたのかよとか、そういうしかるべき批判をすべて恋愛者の利益にくべてさらに燃え上がってゆくものが、ボーイ・ミーツ・ガール本来の昂然さあり、情動が理性をいっさい無効化することの許される、今日となっては数少ない機会なのです。
正統とはお約束、初歩的なやり口ともいえますが、「初歩なればこそ原則であり真理」、ボーイ・ミーツ・ガールに変化球はいらない。原則であり真理を具現するのに、ジブリアニメすら堂々と踏襲する大胆な手堅さ。なお且つおたく心をくすぐるさりげないセクシュアリティも忘れていない。大脳辺縁系にこびりつくエロマンガのような粘っぽさが、これ以上ないほどにさわやかで清々しい恋、このチグハグであたたかい感覚こそがボーイ・ミーツ・ガールの極上美学。それを存分に堪能させていただきました。
ニア役の福井裕佳梨の演技は舌っ足らずで浮ついていて、突拍子もなく理想論的な言葉を並べ立てるものの、会話での応答が意味不明。「捨てられた用済みの女らしく、私の言うとおり働くと言え」というグアームの言葉に、「言いません」と答えます。この場合「働きません」なり「嫌です」言いそうなものですが、「言え」→「言いません」と直接的に否定しているところに、言語表現的な貧困さを見て取れます。「だったらお前も死ぬしかないのう」というグアーム言葉にも、「死にません」と応え、これも全く意味が通じていません。
しかしそれは、ニアが箱の中から出てきたばかりであって、人と話をすること、コミュニケーションすることに慣れていないから。相手の気持ちも考えずに、わかったようなことを遠慮なくベラベラとしゃべってしまうのは、自分のことがわからないゆえに相手のことを思いやることができないからでしょう。声のふわふわっぷりとその内容が聞くからに冷や冷やもので、そういう危なっかしさが、人として在り始めたニアの"ニアらしさ"でもあります。
その彼女が、着慣れない"人という服"を脱ぎ捨て、姫でも人でもない、等身大の女の子としての感情をあらわにしたのが、画像のシーン。そうして思えば、ただでさえ会話が得意でないのに、恐怖の渦中にあってはまともに受け答えることなどできようはずがありません。ラガンを操るのがシモンであることをグアームに話してしまった(俗に言う「ニアミス」)のも、シモンしか頼る相手がいないばかりに、自分を勇気づける、あるいはすがるような思いでつい口をついてしまったのでしょう。ここに至って初めて、ニア役に福井裕佳梨を起用した理由に納得がいきます。なるほど、福井裕佳梨以外にニア役はそうそう務まりそうもありませんよ。
要するに、ニア萌え〜。
アニメで屈託なく「萌え〜」と叫べたのはずいぶん久しぶりのような気がします。いっつも叫びたくは思っているんですけどね。しかし今後のシモンとニアの関係が気になりますねえ。盛り上がってきたとはいえ、シモンにとってニアは、好き云々というより、自分が助け出した子だから責任をもって守っていかなければならないといったところでしょうし、ヨーコのことがまだ好きなんでしょう。何よりニアはなんだか、さらわれるか、悲劇的な結末が訪れそうな匂いがプンプンします。
ロボットもののアニメで、主人公が自分の操縦するロボットのコクピットに女の子を乗せたら、その子がヒロインになるべきだし、ヒロインだったら通常死なないものだし、ニア本人も「死にません」言ってるしねw そんな慣例とお約束と本人の弁にすがって、今はシモンとニアの幸せな結末を祈るばかりです。ヨーコは……きっと兄貴復活しますよw