医師の死角、患者の死角

医師の死角、患者の死角―もっと豊かな医師患者関係のために

医師の死角、患者の死角―もっと豊かな医師患者関係のために

医師-患者間の旧来的な主従関係、「お任せします」「任せてください」的関係から、インフォームドコンセント(説明と同意)をキーワードにして脱却し、より患者本位の思想・アメニティへ変革を遂げつつある病院施設と、医療者たち。それにひきかえ、患者側の態度・ありようは比較的まだ古いものを引きずっているのではないかと本書は訴えます。
医療者側の過度の患者本位主義(患者「様」呼ばわりや、患者の無理難題を通すこと)をたしなめつつ、「先生さま」と卑屈にならず、「治すのが当たり前」と傲慢にもならない、過度に寄りかかったり、不信的な態度で臨むのではなく、自立した人格者としての患者の態度の涵養こそが、医師との間の対等で自然体の関係、理想的には「許し合える」までの信頼関係、つまるところお互いの幸せのために必要なのではないか。言われてみれば"わかりきっていたこと"に、どうして僕らは気づけずに、そして実行できないのかということを考えさせられました。
受付や看護師になら気軽に話せるようなことを、どうして医師には十分に話すことができないのは、身に染み付いた、旧来の医師-患者関係を忘れられない心性からなのか、「医師の機嫌を損ねたくない」という志向は半ば本能的なまでの強制さを伴って、患者側の意気地を挫きます。またその反転として、非現実的なまでの横柄さや脅迫的な態度もまた、生まれてしまうのでしょう。
どれほど気さくで親しみやすい医師であったとしても、病気を罹患しているということそのものが引け目であり、自らの過失による責任であり、それをわざわざ治療していただくのがお医者さまなのだという意識を拭うことができなければ、ある程度へりくだってしまうのもやむを得ないこと。それはつまるところ個々人の心の問題であって、よくないとか直しましょうと言われても、「はいそうですね」というわけにはいかない。わかったところで、どうにもならない部分の話でもあるのです。
自然体で対等の関係を築く、それは言葉にできるほど簡単なことではない。そして、自分の身体(健康)を管理することは結構めんどくさく、自分の身体のことは自分が一番わかっているようで、昨今の検査技術の目覚しい進歩により、急激に、実は自分の身体のことは本人よりも、各種の検査を指示し結果を読み取ることのできる医師のほうがわかっているのではないかという、根拠ある疑いの増幅。それならいっそ、自分の身体(健康)の管理を一切がっさい医師に任せてしまおうじゃないか。ちょうどいいことに、病院は着々と患者本位主義を押し広げ、サービス業として顧客(患者)満足度の向上に努めているようだし――。
治療とは医師と患者の共同作業であるとよく言います。「私(医師)も頑張りますから、貴方(患者)も頑張りましょう!」というセリフは、けれどしょせん建前的で儀礼的な宣言口上に過ぎず、「頑張って治るものならとっくに治ってるわい」と誰もが実は思っているのではないでしょうか。病気とは結局のところ医師の腕次第。そうであるからこそのインフォームド・コンセントであり、セカンドオピニオンであり、患者本位主義、顧客満足度ではないのかと。
しかし、何よりもまず患者のほうに治したいという意志と、自らの身体に関する責任を持ってもらわなければ、治るものも治らないというのは現場では当然の真実。検査に協力し、痛いものを「痛い」ときちんといい、医師からの説明の理解に努め、治療方法を自らの意思で選択する。つまり、自分の身体は自分だけのものであるという人生観と、自らという人格はその健康の維持を重要な構成要素にしているという意識を基盤にした、健康権(ヘルス・ライツ)という思想が重要になってくるのではないかと思うんですね。
疾患の原因が、不運か事故か不摂生であるかに関わらず、ひとまず健康権が害されたという事実をもって僕らは、正当な権利として医療機関に救済を求める。正当な権利であるからこそ医療保険が制度化されています。その上で、治療するにあたり本人の生活上の摂生を求めるものであれば、それは治療の一環として、権利には義務が伴う以上誠実に勤めなければなりません。
とにかく医療者あんたらが頑張れよ、ちゃっちゃと治してくれよというのではなく、申し訳ございませんこんなだらしない身体で本当ご迷惑をおかけしますというのでもなく、自らの人生と尊厳にかけて必要不可欠な、権利と、義務があるのだという思想。私という人生と尊厳とをもってあたれば、どんなに地位の高い医師であろうとも対等に振舞うべきであり、対等であるということに自信をいだければ、その患者-医師関係はごく自然に自然体へと落ち着いてゆくことでしょう。
今回罹患した病気の原因が本人や家族環境にあって、それを医師をはじめとする医療機関そのものが無言のうちに非難しているかのように、彼らが無意識のうちに感じとってしまうのは、皮肉なことに、完成された医療保険制度によるものなのかもしれません。本来の医療費の大方を保険制度が支払ってくれているから、「当然、できるだけ病院にはかからないほうがいい」という意識につながって、結論的に、病気になることは本人たちの過失であり、悪いことのように認識されてしまう。病気とは確かにまったく良いことではないのですが、まったく本人や家族の責任に帰すべき事柄でも絶対ありません。トイレが詰まったのでクラシアンを呼んで直してもらったら、その派遣員が責任を追及してきて、謝らなければならないというようなことが、ありますか。
そう、「ありがとう」といいたい。患者が医師に看護師に検査技師に、おべんちゃらでない心からの「ありがとう」といえるための診療体制を、アメニティを、診療報酬システムをこそ、構築すべきなのです。

 「かかりつけ医、という言葉は違うのではないかと、僕は思うんですよ。最初から『かかりつけ医』という医師がいるわけではない。それは患者さんと医師が、時間をかけて作り上げていくものだと思うんです。行きつけの店ってあるじゃないですか。何度も通って、なじみになると、好みをわかってくれて、メニューにないものを出してくれる(笑)。『コンビニ医療』ではなく、そういう医療を僕はしたいと思うんですね。患者さんが『コンビニ医療』のようにこちらを見るのなら、医師もそれなりのものしか提供できない」

かかりつけ医というものを、僕は「ありがとうと心から言える患者-医師関係」と定義してみたいと思います。結局のところ、どこにでも転がっているような人間関係の、不器用ながらもほろっとさせる"あや"として、僕にとっては、行きつけのラーメン屋で普通のラーメンを頼んだはずなのにチャーシューが1枚多く乗っているのに気づいて「ありがとう」と店主に微笑みかけるまでに至る、取るに足らない数多くのシーンを、普段どおりの態度で、意味も考えないまま積み上げていくしかないのかなという、答えにもなっていなうような言葉でお茶を濁してみちゃうの。