悩み苦しむあいだも時は着実に刻まれる

がんと私 死と生…苦悩の先見えるもの

 「患者を蚊帳の外にして家族と医師が話し合う現状のまま、『患者中心』が推し進められようとしているのは不気味だ」という医師の意見に対し、「全く同感だ」と訴える神奈川県の中村浩さん(38)は(略)「本当のことを伝えること」には二つの大切な意味があると考える。一つは、自分の生き方を自分で決めることができる。決めなければ結局、自分が苦しむ。もう一つは、告知されて苦しむ中で、幸せに対する価値観が変わっていく気がすること。ぎりぎりの中で、自分の死と生を考え、そこから見えてくるものがあったという。
 一方、家族の思いは複雑だ。今年、26歳の娘を乳がんで亡くした両親は、「考えに考え、余命宣告はしないことを選んだ」。患者中心の医療の意味を、患者が最後まで希望を失わず、最後まで自分らしく生きるために家族と医療従事者が一つになることとし、「何でも本人に選ばせられるものではない。告げる前に周りの人が十分に考えることが大切だ」と綴(つづ)る。

患者中心にものを考えるという場合、それが「議論の中心に患者本人を据えて周りが考える」という、現状肯定の解釈変更にしかならないのではないかという指摘もまた正当なものだけれども。無理矢理解釈を変更してまで、周りの人たちで患者本人のことを決めてしまおうとするのは、もちろん、余命の本人告知に関する問題の安易な敷衍・混同であることをまず確認しなければなりません。とはいえ、この本人告知の問題は周辺の問題を無意識的に巻き込んで、雪だるま式に困難さを増している感があります。
本人に告知するか、しないか――。それは、患者本人はもちろん本当のことを知りたがり、家族や医療者がすぐに叶えて告知してしまったものなら、知ってしまったがために余生を苦しみ抜き、後悔以外の何ものも得られないまま終わてしまったというような、起こりうる生々しい不幸について、誰も責任を取れないという洒落にならない恐怖に対する、条件反射的な防衛機制という躊躇。責任を回避したいのではない、知らせるべきことを知らせなかったのは自分たちだという、明白な責任の所在の確保、愛する家族の死という責任と現実を今後一生自身のうちに担保しておきたいがゆえのもの。その苦しみは、知らせるべきことを知らしめてもたらされた不幸の、永続する生温い罪悪感に比べれば、まだやさしいに違いありません。
「本当のことを伝えること」の意味。それは、「自分の生き方を自分で決める」という生き方を患者本人に強制しているということになりはしないか。深刻な病に陥り、摂生や養生だけでは治癒しがたい状態にある当人を前にして、「自分の人生なんだから、自分で決めなさい」と言うのは、ずいぶん残酷な話ではないでしょうか。自分ではどうにもならないからこそ病院にかかっているのであり、ゆえに入院している人間に対して、健康な他人がのたまわる言質としては、ちょっとおこがましいことのように感じられます。また、「幸せに対する価値観が変わっていく気」とは、まさしく患者本人の内面の問題であり、予測も、期待すらも周りの人間はするべきではない。そもそもそういった発言の基盤をなしているような思想、接すればかかるであろう無言の圧力が患者本人を苦しめてしまう可能性を考慮していない、浅はかな理想論だと僕は指摘したいのです。
「ぎりぎりの中で、自分の死と生を考え、そこから見えてくるものがあったという」、確かにそういう人もいるでしょうし、それ自体は感動的で素晴らしい。しかし全ての人がそうなるとは限らないし、他のとある人物がそうだったから貴方もそうなるだろうという"当て推量"でそうされては、本人にとってはまったく迷惑な話です。「ぎりぎりの中」と簡単に言うけれど、期限ある生を後にして、確実な死を前にして、深刻に悩み、孤独のうちに悶え、震えるように苦しむ。その鬱々とした時間は、漫画やアニメのように止まっていてはくれない。どれほど誠実に悩もうが関係なく容赦なく、刻まれてゆく時間は砂時計の砂のように残量を冷酷に減らしていくばかりなのです。
観念的な幸せを見出すために残り少ない人生をさらなる苦しみで注ぐか、その時間すら惜しむように具体的な日常を出来うる限り満喫するか。僕なら、深刻な病気の詳細や確定した余生スケジュールに「気づかない努力」を惜しまず、「なんとなく深刻っぽい」という雰囲気を肌で感じつつ、以前よりは多少大切に、限定された日常を日々慎ましく謳歌して終わりたいなあと、思ってしまいます。
疑いようもなく知って絶望するよりは、あいまいなまま知らないで不安であることのほうがマシ。そもそも病で臥せっているのだから不安を感じないはずはないのだし、それを「程度の問題」に還元できる無頓着さなら、僕でもどうにか融通できそうです。だいたい、自分の手に負えない病であるなら、自分の手の届かないところに"置いて"おいて欲しい。どうにもならないことを、どうにもならないままに、自らの認識において"どうにかするように"留め置かれるというのは、ちょっと"意地悪"ですよ。
周りの人間にかかる「知らせる/知らせない」というベクトル、患者本人にかかる「知りたい/知りたくない」というベクトル。僕はこの2つのベクトルの中間に、「知るべき/知らないべき」というベクトルが存在しているのではないかと思うんですね。どこにかかってくるかといえば、患者本人と、周りの人間との関係性。本人による「どう生きたいか」という意志、友人や家族による「どう生きてきたか」という感慨、医療者による「どう生かせられるか」という目処。この3点の結節点を、今流行の信頼のおける第三者機関が評価・判定してくれないかなあと、つい的外れなことを考えてしまいます。
きっと僕らは、自分の人生(過去と未来とを一貫する人格的資質とでも呼べるもの)を評価するという作業に慣れていない、というより耐えられないのではないかと疑っています。しかし、自身に対する評価を前提とせずにこの問題への対処方法はありえません。第三者機関に提出不能であればこそ、しかるべき評価は行えず、よって安全装置が働いて「本当のことを伝えること」は保留される。死が保留されたままの当面的な現実というのは、いわゆる"普通"であって、普通の人々が知らされないようなことは、僕も知らされたくはないという実感レベルに落ち着いてゆきます。
結局、少なくとも僕には、過去でも未来でもなく、現在ですらない、今日という1日を差し障りなく生きていく程度の才能しか、持ち合わせていないということです。「今を生きる」といえば聞こえはいいが、今しか生きられないというのが実際で、過去は悦楽、未来は苦痛でしかない人生の、資質とやらを誰が好きこのんで評価したい・されたいと言うのかね?