「適当に生きるな!!」2

初めまして。「適当に生きるな」というのは、単にとあるゲームで使われていた言葉。
いちいち書かなきゃいけないのは、自分がそうやって生きてきたことへの戒め。
何でもいいのです。自分の意識を喚起できるのなら。ただ、一方で、果てない夢を追いかける事は、現実と理想とのギャップに永遠に苦しむ結果となり、それが幸せなのかという問いもある。都合よく解釈することもまた、一つの選択だと思います。その方が、私も要らぬ悩みにさい悩まされることも無いでしょうしね。乱文失礼致します。

それは舞い散る桜のように」からの引用だったみたいですね? どういう状況で用いられた言葉なのか、ちょっと興味があります。紙に書いて張るような目標ってたいてい、「〜しよう」とか「〜するべきだ」といった、肯定すべき行為・状態を達成する意思や義務を自身に約束させるものじゃないですか。でもこの「適当に生きるな」というのは、否定すべき行為・状態であることへの禁止・離脱を自身に約束させている。しかも「適当」という、文字通り適当で任意性の高い表現によって、あいまいなまま禁じているわけです。「生きる」という人間にとってもっとも根源的な行為・状態について! それが僕には衝撃的であったわけです。
承認するならまだしも、禁止するなら列挙主義にしてくれないと、禁止されるほうにとってみればたまったものではありません。これでいいのか常に不安で、ダメだとしたらどうしたらいいんだろうと心休まりません。そういう気持ちのありようを、そうあるように仕向ける端的な言葉をルーズリーフに書いて、壁に張り付け、自身にことさら強いている、そういう就職活動にまつわる苛烈な精神性・自意識への掣肘が、実にリアルに伝わってきたのです。
でも僕は――いや、愚痴を言うのはよしましょう。いろいろ大変でしょうが、元気でいてください。