食べるという救い

ポストに挟んであった中華料理屋の出前メニュー。「御飯の部」の欄の「ライス」が350円という表示を見て、そのままゴミ箱に捨てたのは、おそらく正当で普遍的な対応だと僕は思っています。「マーボー豆」「鳥の唐揚げ」あたりも重要な選考材料となったこともここに付しておきます。
中華屋の出前かあ、もう何年も取ってないなあ。
中華料理屋といえば、関係ないんですが好き好き大好きっさんの6/14更新分「おっ、きたきたきましたよ(←食い物を目の前にした井之頭五郎チックな表情で)」という表現にある井之頭五郎という人名が気になって、ネットで調べて知った「孤独のグルメ」(リンク先は感想)。これ面白そうですねえ。
中年の特質なのかどうかはわかりませんが、傍から見れば不毛で無意味な、好き嫌いや食い意地とは若干違う、(固守的な)態度そのものが子供じみている食への執着。けれど本人にとっては、仕事や生活でも持ち得ないようなプライド、譲れない信念のようなものを抱いていることって、あります。
吉野屋の牛丼でたまねぎが丼からはみ出していたり、紅生姜の残りが半分以下になっているのを見つけると不愉快な気分になったり、「自分とはその程度の配慮も頂けないちっぽけな存在なんだな」と凹んでしまったり……。そういうときは、いつもと変わらないはずの牛丼でも不味く感じられてしまう。「回転寿司屋でツナサラダを置いてないなんて、まったく信じがたいことだ」と店員に食ってかかったこともあります。あれは本当に大人気なかった……。
食というのは人間にとって本質的な欲求で、しかもある程度の金銭さえあれば、そりゃテレビで芸能人が食べているような高級料理は無理だけれども、ある程度自由が利く領域じゃないですか。ゆえに、どれだけ安価な、B級とも呼ばれる粗末なメニューであっても、それが食にまつわるものである以上、こだわりを免れない。これが性欲ではそうもいかない。睡眠にしたって、寝ている間は何もできないし楽しくもなんともない。食以外の欲望はこだわりたくともこだわれないから、こだわれる食についてはとことんこだわりたくなってしまうんですよ。これはもう、誰にとってもしようがないことです。高級食材にこだわることは品が良いとか、ジャンクフードにこだわることは品が悪いとか、そういう問題じゃないんです。もっと根源的な部分。

「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ、独り静かで豊かで・・・」

これ、すごくわかるんですよねえ。要するに食事とは、メニューの質量じゃなくて、それももちろん重要だけれど、気分なんだと、心で味わうものなんだと。言葉にしちゃうとすごい安っぽいんですが。
作中の「主人公の食事中にアジア系の店員を大声で怒鳴りつける感じの悪いマスターにブチ切れて説教するシーン」みたいなことを、僕も経験したことあるんですよ。僕が10年来足繁く通っているラーメン屋。そこの店長とは多少仲良くさせてもらっているんですけど、彼は大抵夜から深夜に店に入っていて、日中は別の人が入っています。ラーメン屋の店員なんてまあ、入れ替わりが激しく、品行方正とはいえない若い兄ちゃんが多いもの。
そんなある日の昼下がり。この店でも作中での該当シーンのようなことが起こりましてね。「アンタやる気あんの?」「そんなだと俺ら周りが迷惑するんよ」「辞めてくんない?」みたいな、同年代同士の先輩後輩的若い店員たちが、雰囲気の悪いことになっておりまして。僕はたいてい替え玉を1回か2回するんですが、その日はこの通り気分が悪かったので替え玉せずに店を辞し(さすがに関節技を決めたりはしない)、それ以来もう1年近く行ってないんですよねえ……。
人は誰しも、美味しいものを気分良く食べたいものです。美味な食事自体が気分を良くしてくれる以上に、美味しいか否かに関わらず食事を提供してくれる人に気分の良い振る舞いを期待したいのです。

 正直に言えば、僕にはどんなものでも不満を覚えるということがないのだ。たとえまずいものでもなんとなく納得してしまう。まずいというのも僕の舌に合わないだけで、これをおいしいと思う人は必ずいるはずだ。そう思ってゆっくり味わっていると、不思議な親しみを覚えてくる。致命的にまずいと思えるものも、これほどの味に作れるということがなんだか面白く、ついおかしくなってきてしまうのだ。 (6/15付読売新聞朝刊)

食についての好き嫌いなんて、十人十色。慣れもある。それこそ、幼女が好きか幼女以外が好きかの違いのようなものです。その点に関してにゃんにゃん、もとい云々したところで誰も救われはしません。不味いとわかっていてもギャルゲーの主人公はヒロインお手製の弁当を平らげなければならないように、行列のできる店で「最近不味くなった」と酷評することが通であることの証であるように。矛盾するようですが、こだわりなんてあってないようなものです。その「自由」過ぎるこだわりを「邪魔」せずゆったりと受け入れる、店の器量と店員の振る舞いに包まれながら、「独り静かで豊かで」あるという気分を感じたい。心に浸りたい。それが救いなんですよ。
「モノを食べる時はね、救われてなきゃあダメなんだ」
だから、それぞれ思い思いの食を個人的に楽しみながらも、家族は一緒の食卓を囲もうとするのかもしれません。食が救いでなければ、家族がどこで何を食べようと関係ないという話になるじゃないですか。1本の箸を操るのに夫婦や親子で協力しなければならないわけでもあるまいし。それこそ、家族がどこのトイレでナニをシようと関係ないのと同じように(失礼)。
救われたいから、救いたいから、家族は一緒に食事をしようとし、中年オヤジは外食にこだわる。井之頭五郎が誰を救っているかといえば、読者なわけだけれども(ベタ)。