美少女ゲームにおけるプレイヤー・リアリズム

美少女ゲーム(ギャルゲー)のテキストには、ずいぶん名言が多いなとは以前より感じていたことです。それが鼻につく場合も多々あるのですが、たとえば人生論的なもの、家族観や人間関係、社会認識的な経験論・箴言が実に多い。僕はそういう台詞をメモ帳に残しておく癖があるのですが、それほど美少女ゲームをプレイしない僕でさえ、そろそろデータベース化して管理したほうがいいと思うくらい、溜まってしまっています。
そもそも美少女ゲーム、ぶっちゃければエロゲーで、年端もいかないエッチなこと真っ盛りの若造たちに、何が悲しくて人生論の講釈を受けなければならないのか。修学旅行に来ているのに普段どおりの「勉強する」「運動する」コマンドを実行しなければならない「続初恋物語 修学旅行」のような疑問を感じてしまうのは、少しでも美少女ゲームをプレイしたことのある人であればわかると思います。
それと同時に、東浩紀氏が「ゲーム的リアリズムの誕生」で取り上げているような、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」「Ever17」「AIR」といった、プレイヤー視点・存在を言ってみれば大仰な形(システム)で取り込もうとするとまではいかなくとも、例えば先日まで僕がプレイしていた「彼女たちの流儀」の劇中劇に出てくる「死せる月の国」やセレス(主人公・兎月胡太郎)などは、一般的に了解されているエロゲーオタク的な気質を象徴し、そこから救い出そうとする意味が見て取れます(吸血鬼という設定、鳥羽莉の苦悩はおたくの葛藤を表し、その彼女をレミューリア役に仕立てて、自分を傷つける全ての人間を死に追いやる「死せる月」に依存(おたくの精神)するセレスに対し、「セレス、キミがこれまでいた世界が健やかだったなんて本当に思うのかい?」と言わしめる)。
ゲームシステム上の創意工夫という特殊領域から、物語上の演出、あるいは恋愛ビジュアルノベルというテキスト媒体のひとつの文体として、より普遍的、悪くいえばありきたりな様式として、プレイヤーの存在・意識・まなざしは、細胞レベルで、今般の作品にとって織り込み済みといえます。もっといえば、パロディやお約束、萌えや性倒錯に至るまで、作品を正当に理解する、意図通りに楽しんでもらう、あるいは無難に進行してもらうためにもプレイヤーのおたく的な知識や感性(素養)が必要不可欠。実質的にはプレイヤーが美少女ゲームを、商品としてはもとより、作品として成立させていたのです。プレイヤーの態度や素養に依存しているのだから、その性質を鑑み、気質や嗜好に沿って制作されるのは自然なことであり、マンネリ化した傾向は時に反転し、プレイヤーの存在をパロディ化し、騙し、いじったり取り込んだりしようとする"ツンデレ"な作品が現れてくることもあるでしょう。
プレイヤーに媚を売る美少女ゲームは、その外見や印象がどうあれ、本質的にその宿命から免れえません。市場に売り出される全ての美少女ゲームは、個人個人の好みの差こそあれ(それが重要なんですが)全てのプレイヤーに好まれるべきものなのです。それは、ソフト単価が1万円もするジャンル作品をいたずらに購入することが難しい事情と合わさって、美少女ゲームユーザーにある種の変わった意識を生み出します。それは、「自分の好みで購入した。プレイしてみてイメージしていたものと少し違うようだけれど、これが美少女ゲームである以上、ユーザーである俺に楽しめないはずがない」と。
もはや美少女ゲームというありようは、ユーザー/プレイヤーにおいて能動的・主体的な意味で「美少女ゲームにどう臨むか」という態度(マニア的な矜持)を捨てさせ、ユーザー好みの作品がユーザーに要請する「プレイヤーとしてのありよう」へと、柔軟に、浸透的に遷移し、そのことをもって感情移入であると解釈すべき時代を迎えているといえます。キャラクターにではない、物語の展開にでもない、それらを含めた総合的な”食感”、作品が規定しているプレイヤーのありようを敏感に察知し、自身の態度・心理を変容させ、巧みに対応させる。パソコンの性能と同じ文脈の”プレイヤー仕様”、そのクリアー作業はいわゆる感情移入と呼ばれるものであり、より正確を期するならば、「感情順応」と言い直すべきかもしれません。要は慣れです、慣れ。
データベースから萌え要素を取り出し、組み合わせ、美少女キャラを生成する。同じく物語を編製する。そうして出来上がった美少女ゲームを、その掲げるテーマを、プレイヤーは第一義的に(本来的にといってもいい)楽しむのではなく、意識的に「楽しめるようにしている」のだと思うのです。作品が規定するプレイヤーのありようと、一致させた自身の性質とをシニカルに眺めやる、「お約束な展開」「お前惚れるの早すぎ」「こんな場面で感動するなんて安っぽいよな」と諸々難癖つけつつ心動かされている・涙をぬぐうありさま、そのときのプレイヤーとは、作品自体に諸手を挙げて感動しているのではなく、作品によって想定されたプレイヤー(像)の示す"なりふり"への、"なりきり"と観察を通して、自己欺瞞すれすれの楽しみを見出しているといえるでしょう。そして、「俺は結構楽しめたけど他の奴は無理じゃね」という感想は、美少女ゲームプレイヤーにとっての"戦勝宣言"に他ならないのです。
この態度で臨むことの利点は、作品に没入することで得られる楽しみと、作品を観察することで得られる批評を、より内実的な立ち位置から獲得できるということ。僕らの言葉は、本音であり、同時に嫌悪でもあるのです。愚直ではないという誇りと、素直ではないという悔い。このアンビバレントなプレイヤーの内面を、美少女ゲームは、その表現形式としてのエロと人生論によって巧妙にすくい上げ、ゲーム性による加工を経てエンターテイメントとしてプレイヤーに返送します。それで癒されたとすればとてもうれしいことだと、制作者の人たちは思ってくれるもかもしれません。
現実もひとつの虚構に過ぎないと斉藤環氏は述べていたけれど*1、その虚構をさらにパロディ化した美少女ゲームにおいて、描かれるエロと、語られる人生論。それは、虚構をパロディ化することによって、パロディごと剥ぎ取ってしまわれた先の”すっぴん”なオリジナルとして見つけ出されるのかもしれない。もしくはオリジナルが無いということを。そうして僕らは、どちらにせよ自我(アイデンティティ)の二次創作としてこの現実を生きてゆく。無いオリジナルの二次創作を生きるだなんて、ちょっと滑稽だけれども。そういうのを一笑に付すための道具に、僕らは事欠かしませんから。
美少女ゲームをプレイするプレイヤーとは、性的存在としてのヒロインを視線によって自由に陵辱する、「まなざしとしての私」でしかないとササキバラ・ゴウ氏は述べていたけれど*2、「私」の「まなざし」とは何も美少女ヒロインだけに注がれているわけではありません。ゲームの文学性とは、キャラクターに血を流させることを通じて、プレイヤーにいかに血を流させるかということであると大塚英志氏の意見から転用して東浩紀氏は述べていたけれど*3、美少女ヒロインはたいてい処女であり、主人公との性行為によって破瓜の血を流すことになる。
それはプレイヤーをして下腹部に血を集中させる(流れさせる)ことになるでしょう。強引ですか、そうですね。ほっといてください。主人公がヒロインを犯しているとき、プレイヤーはヒロインの淫猥な姿態に視線を熱烈に留めると同時に、そのまなざしはいったいどこにあるのかといえば、これ以上ないというほど峻烈に、明敏に、自身のセクシュアリティに向かっているのではないでしょうか。美少女ゲームの文学性とは、つまるところ、そういうことなのだと思うのです。改めて言葉にするのも恥かしいけれど。
二次元的存在である美少女ヒロインは、そもそも「到達不可能な場所に置かれることで」、プレイヤーに「リアルな欲望を喚起」させる*4。そこで沸き起こるセクシュアリティとは、対象が虚構であるがゆえに、いや虚構であるからこそ強化され、補完されるのはむしろリアルの方。そもそも現代人の性とは、幻想(妄想)によって組成されているからこそ健全に維持・遂行することが可能なのだから*5、虚構であることを前提している美少女ゲームが、その派手な虚構性ゆえにプレイヤーにセクシュアリティのリアリティを付与するのは、当然の帰結といえます。
つまり、美少女ゲームが18禁の成人向けポルノメディアであることの必然として、描かれるポルノグラフィは、セクシュアリティを経由して作品そのものにリアリティの息吹をもたらすきっかけになりうるかもしれないということです。性行為シーンに至ると、それまで権勢を振るっていたテキストが後景に追いやられ、ビジュアルと音声が前面に出てくる。それまでテキストが表象していたような、知性的なもの、意味というものが失われる瞬間こそ、リアリティあるセクシュアリティ。そして事を終え、テキストが従前の地位を復活させたとき、「あ」とか「ん」とか云う束の間のリアリティが残り香として文体に染みこんでいるのを、プレイヤーは”感覚”することになる。
汚れたシーツが現実を思い知らせてくれるように、リアリティの証拠をプレイヤーは意識せざるをえない、何しろそれは”自分自身のこと”なのですから。もちろん嘘かもしれない、嘘というか錯覚でしょう、文体には何も残ってやいない。いったいどっちなんだ。この際、美少女ゲームは虚構であり、その虚構を事実(リアル)として法廷で証言すれば、偽証罪咎められます。虚構なら虚構としてつき通さなければなりません。取調室で警官同士の猥談に勃起して嘘がバレてしまう松本清張的ギミックを、僕らは決して笑えない。つまるところユーザー(プレイヤー)は、美少女ゲームを手に取りレジに差し出すとき、自動的に、ジャンルそのものとの共犯関係を引き継ぐことになります。なぜなら、血が流れることを、僕らはどうにもできないのだから。
美少女ゲーム作品を購入した時点で、ユーザーは作品と共犯関係になる。作品はユーザーに"規定されたプレイヤー"としてあることを要請する。プレイヤーはエロ描写によって自身のセクシュアリティを見出す。そうして生まれてきたリアリティは作品側に提出され、”共謀されたリアリティ”として人生論を担保する。リアリティにまつわるこれらの共犯関係・相互作用が、彼をして人生論を語らせ、己として受け取る文化を構成しているのではないでしょうか。
主人公とヒロインは真剣な恋愛とSEXをしているのだから、彼(彼女)が語る人生論も真剣なものであるに違いない、だからプレイヤーも真剣に耳を貸さなければいけない、などと模範的なことがいいたいのではありません。美少女ゲームとはそもそも虚構であり、そこで描かれる性描写はまったく誇張的で、倒錯的で、いかがわしい。けれどその作られたセクシュアリティが、プレイヤーに人間としての(生理的な)現実感覚を抱かせてくれるのも確か。
セクシュアリティという現実、あいまいで漠然としていて、持っていても持っていなくても悪いこととされるような矛盾と齟齬だらけの強い欲望を、確認し、認めてくれる「退避場所」*6として美少女ゲームを指定していいものならば、あいまいで漠然としていて、掴もうとしても突き放そうとしても得体の知れない人生というものを、確認し、認めてくれる「退避場所」としても同じく指定していいんじゃないか。それがダメでもせめて、錯覚しておきたいという魂胆。*7
それらがたいてい甘えであり、自意識過剰・自己陶酔の楽園のなか、当事者の問題を他人行儀な理想論にすり替えてしまう自己肯定に満ちた詭弁であることに違いはなく、自己欺瞞すれすれの楽しみ方をしているプレイヤーであれば当然、認識していることです。思春期という「到達不可能な場所」から発せられた人生論よって、自己肯定という「リアルな欲望」を充足させているだけともいえるでしょう。
しかし、有り難い人生論やスピリチュアルな説話集が幅を利かせ、「人生を成功させる○○の方法」などという十把一絡げの諸著作が版を重ねている、わかりきったことを「今の時代の人々はそんなことも忘れかけている」と断定した上でもう一度教えてくれる”大きなお世話”が充溢した今日という時代。時代遅れで青臭い言い回し、あまりにも愚直で素直な台詞を恥かしげもなく語ってくれちゃう美少女ゲーム発の人生論は、もしかしたら思いのほかオリジナルに近いのかもしれません。相対的に、そんな予感を覚えます。高度化した文化が復古を求め、複雑化した社会がシンプルを欲する。人生論がもてはやされる風潮において、形式のみならず内容的にも期せずして同期していた、そんな青春発行にきび付の人生論。恥かしいことを時代が求めているとは、寡聞にして知らないけれども。
ただ、少なくとも美少女ゲームは、その本質的なシステム性において、プレイヤーのまなざしをプレイヤー自身へと切実に向けさせてくれる(落とし込んでくれる)。説話集を読んでいる時に想定している自己像とは、たいてい身近な他人か誠実でおとなしい自分の理想像であり、そこでは釈迦な説法を心静かに聞き流して感銘を受けた気になっている自分に酔っているに過ぎません。しかし美少女ゲームはそう悠長なこともいっていられない。欲望まみれ、精液まみれの文体によって、恥も外聞もない独善的・露悪的な態度と、見も蓋もない自己像を掘り起こされてしまうのだから。
それを読者・観客が主体的に意識的に行わなければならない本や映画と違って、「気づいてみるとそうなっていた」といえる強制性・受動性こそが、ゲームという媒体の優位点であり、そこに美少女=セクシュアリティが絡んでくることでその優位性は格段に上がってくるわけです。ゲームという概念は案外原始的なものであり、四肢麻痺の男性が女性の裸体を前にしたら腕が動いたというような本能の奇跡を、生々しい未来をこのジャンルは担っているのです。
美少女ゲーム作品が規定するプレイヤーのありようと、一致させた自身の性質とをシニカルに眺めやる立ち位置に立つプレイヤーは、エロのリアリティと、人生論のリアリティによって、自身の本性そのものが実はゲームシステムの俎上に上がっていたことを知る。自分の心理・態度をゲームの求めるプレイヤー像にわざわざ近づけていったと思っていたら、実はゲームの求めているそれが限りなく自身の性質に近いものだったという”転倒”。錯覚→自覚→驚愕が、ゲームの、美少女ゲームというジャンルのもつ本来的なゲーム性であり、美少女ゲームにおけるプレイヤー・リアリズムと呼べるものです。驚くためには、まず思い込まなければならない、思い込みの深さでいえば、自分に対する以上に深いものなどないというわけです。
それが元々プレイヤーの性質で本人が気づいてないだけだったのか、それともゲーム側の精巧な詭弁(ミスリード)なのか、はたまたゲーム―プレイヤー間あるいは「物語外の現実とつながった感情操作のメカニズム」*8によってプレイヤーの性質が変容した結果なのかは、なかなかわかりません。わからないからこそ、ハマる。「わからない自分ってなんだよ」「なんで俺はこんなに感動してるんだよ」、まさに「おたく的ニヒリズム」を焚きつけてやまない”自虐”ネタを前に、僕らは「創造的熱狂へと反転していく」*9。「大きな物語」とか「非物語」とかはわからないけれど*10ポストモダンに物語がなくなったのだとしたら、最後に残っているのは「自分探しの物語」しかないわけですからね。
美少女ゲームというものが、プレイヤーである人間の「自分探しの物語」の”暫定措置”であることは自明のこと。自分探しとは、恋愛における価値観と人生観の確立の作業工程に他ならず、交通安全教室が紙芝居仕立てだとわかりやすいように、自分探しも物語仕立てだとわかりやすい。しかし、わかりやすい自分というのもちょっと悔しいしみっともないから、いつまで経っても美少女ゲームは暫定措置。とはいえ生涯自分探しのモラトリアムを過ごしそうな僕としては、やっぱり離れがたいのですよ、当然のことながらね――。

*1:斉藤環著「戦闘美少女の精神分析

*2:ササキバラ・ゴウ著「美少女の現代史」

*3:ゲーム的リアリズムの誕生

*4:戦闘美少女の精神分析

*5:岸田秀著「性的唯幻論序説」

*6:戦闘美少女の精神分析

*7:それは、卑近の例でいえば「彼女たちの流儀」での台詞、「――あたしが赦してあげる」火乃香さんは言った。やさしく、つよく。「たとえキミ自身が赦せなかったとしても、あたしが赦してあげる。だから、キミは今キミが好きだと思える気持ちに、自信を持ちなさい」からも読み取れる

*8:ゲーム的リアリズムの誕生

*9:戦闘美少女の精神分析

*10:ゲーム的リアリズムの誕生