「ぼくらの」をギャルゲー的に読み解いてみる*1

自分は父親を知らない。それは、母親が性風俗の仕事をしているときに身篭った子供だからかもしれないという疑い。大好きな母のことを思い、そんな不審は拭いたくて仕方がないけれども、周囲からの嫌がらせもあり、母親を信じきれない。それは自分が悪い子だからだと思い込み、半井摩子は常に模範的であろうとしてきた。「全体の奉仕者」「人の役に立つ」とか、「私は、私の義務を果たします」など、宗教者染みた生真面目さで、(自分のことに関する限り)淡々とした台詞が印象に残っていた彼女が、Zearthのパイロットに選ばれて、死を前にしたからこそ踏み込める、無茶すぎる行動を通して本当の母親の姿を知り、ついにわかりあう。(第10話「仲間」)
「そうだった。いつもいつも、模範的である必要はないんだった」
半井摩子はそう呟いて、Zearthの腕を自ら切り離す。
「自分に責任を取れるのなら、それを使ってもかまわない」
そして、短くなった腕で敵に快心の一撃を食らわし、見事ほうむることに成功する――。
「ぼくらの」エピソードの中でも特に心を打つ、衝撃的で、よくまとまった良いお話でした。自己責任という言葉が以前メディアを賑わせていた時期がありましたが、人類の敵を倒す、そして自らの死というこの世でもっとも重そうな「責任」を、自分の納得できる形で、きちんと果たせた彼女だからこそ、「それ」を使うことが許された。少なくとも摩子は、見知らぬ男性の子を産むという社会的に望ましくない「それ」を母親はしたが、母親自身の納得できる形で且つきちんと育ててくれた母親を許せたし、僕も摩子のやり方はいっそ清々しいと思いました。いや、誰が誰を許す云々ではなく、そのひとりの13歳の女の子に束の間宿ったまなざしは、とてもやさしかった。人間という不埒な存在に対してあまりにも……。
「義務なんかじゃなくて、ひとりひとり自分のために戦おうよ」
実は僕は、セカイ系という概念がよくわかりません。たとえ自分の一挙手一投足に世界の命運がかかっているという設定や、事実があったとして、本人も自覚していたとしても、自分とはおそらく、身近で大切な1対1の関係・空間でしか世界を捉え、または守りたいと思うことしかできないのではないかと思うからです。
1(自分)対1(相手)。この等式的な主観にとって、世界は0.00000000(略)1未満の価値しか見出せず、それが加算されたところで、2には決してならない。自分の相手はどこまでいっても(自分の選んだ)相手しかありえないわけで、そこに世界の命運とかは、現時点では余計の、些末な”おまけ”に過ぎない。セカイ系という概念は、少年少女が、世界規模の危機感でも注入してやらなければ決して本気になることはないんだろうぜと、小馬鹿にしているような意味合いでの、次相の異なる世界のすり替えと、混同。それ以上でも以下でもないように思われるのです。
実際に世界の危機が訪れたところで、コエムシは滑稽だし、Zearthの駆動音は工事現場のボーリング掘削音のよう。取り立てて面白くもつまらなくもない、”のっぺり”としていて、あまりにも空々しく感じられます。政府間交渉? 認知工学? 地球の存亡とやらに差し当たっても、誰も本気になったりはしないということは、この「ぼくらの」を見ていると虚しくなるほど実感します。色あせたような、懐古的な作画もあいまって、いまいちピントがあっていない世界観は、彼・彼女らの世界と、地球の存亡という場合のセカイとを、半透明のラミネートのようなもので”するり”と断絶させられているかのようで。
1対1でいうところの相手が死んで50%、自分が死んでようやく世界とセカイは接続される、無という0に際して。セカイ系という概念が、妄想の1枠組みから1個の法則として成立するためには、その真実を実証するためには、相手を殺して自分も死ぬか、あるいは全人類の思念が各個人において統合されたそれとして”体験”できるような”進化”を果たすかするしかないのです。
ところで。「ぼくらの」の作品としての構造は、どこかギャルゲーに通じるところがあります。a話において、なんらかの超越的な意思(≒ギャルゲープレイヤーの気まぐれな選択)によって、パイロットに選ばれたキャラクターは、人格を与えられ(だいたいの場合この時点で名前と顔が一致する)、生というエピソードを与えられ、心温まるあるいは痛切なメッセージが与えられ、そして死というエンディングを与えられる。彼・彼女らは死を決定づけられて初めて、生を与えられるわけです。
そしてまずギャルゲーにおいて明らかなのは、1回目のプレイでエンディングを迎えたキャラクター(ヒロイン)であっても、2回目のプレイでは同一人物として再び登場するということ。ここでは死んだりするわけではありません。けれど1回目のプレイ(経緯)において確立していた、彼女という人格や、生というエピソード、心温まるあるいは痛切なメッセージが与えられた者としての同一性は、喪失している。それは実質的に”死”そのものを意味するといえないでしょうか。
ギャルゲーのプレイヤーは、1回目のプレイでaヒロインとのエンディングに到達し、戻されるタイトル画面で別ヒロインの攻略を意図し、始めからやり直した(スタートボタンを押した)瞬間、aヒロインを殺めていることになるのです。なにしろ、2回目のプレイに登場することになるaヒロインは、原理的にはa'ヒロインでしかありえないのだから(たとえ同じ選択を重ねて前回プレイ時と同じエンディングを迎えたとしても、プレイ開始時にaヒロインを「いったん殺している」という事実は揺るがない)。
「ぼくらの」に登場する少年少女たち(それ以外も加わることになるが、それはさておき)に用意されているのは、Zearthにパイロットとして選ばれ、せわしなく心の平安を得たり得なかったりした後の、生命力を吸われた末の空ろな死。主人公たちの事実的な死はしかし可能な限り隠蔽され、そのまま話は終了する。そして次の話を見た時に、前回パイロットに選ばれたキャラは、当然のことのように登場しない。死の現実はあくまでも秘匿され(ココムシによって都合よく処理されている)、いまだ生き残っている彼・彼女たちは、死の結果の不存在という現状だけを”とりあえず”認識しているに過ぎません。形式的な少年たちの死に、事実性を付与するのは、視聴者である僕たちに委ねられている。
それは同時に、少年少女が把握しうる1対1の空間・関係――世界がセカイと唯一接続できる機会は、「ぼくらの」という作品においてはその設定と構成によって巧みに回避され、ギャルゲーにおいては、不存在の残り火(「灼眼のシャナ」に出てくるトーチのような)によって欺かれているということでもあります。「ぼくらの」の少年少女は、視聴者が、ギャルゲーのヒロインは、プレイヤーが、それぞれ"継続"することを選択したとき、殺されて、いる。それはつまり、少年少女・ヒロインの世界は、視聴者・プレイヤーによって断絶させられ、代わって己ら自身がセカイと接続しているということ。死とそして生(世界の根本)を恣(ほしいまま)にできる地位を得たとき、僕らはそこにセカイ系の地平を初めて瞼でじかにおさめることができるのです。
そこで云われるセカイ系とは、作品世界と登場人物から見た視聴者・プレイヤーのありようであり、キャラクターが雄雄しくもたおやかに物語を織りなすことによって、政府や社会・人々といった中間項を差し挟むことなく作品世界に直接・劇的な変動をもたらし、しいてはプレイヤーの気持ちも直接・劇的に変化させるということ、それこそがつまりセカイ系といわれる概念の本源でしょう。そういう意味で僕らが、彼らをして作用を及ぼすところのセカイであり、インタラクティブなメディアであるゲーム(ギャルゲー)においては、社会規範や良識・礼儀といった中間項を差し挟むことなく主人公の言動を直接・劇的に操作し、しいては彼の気持ちも直接・劇的に変化させるという意味で、彼らが、僕らをして作用を及ぼすところのセカイでもあるのです。そして「ぼくらの」は、このような意味でギャルゲーたろうとしているように思えてならないということなのです。
設定として既成されたヒロインを攻略対象に選んだとき、彼女は生き始めると同時に、死に始める。エンディングが幸せなものであればあるほど、爾後”トーチ”のありようは少し辛い。「ひとりのキャラクターを擬似的に恋愛し、泣き、笑い、責任を感じておきながら、同時にほかのキャラクターにも萌えることができる」(東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生」)、ギャルゲーにおける複数ヒロイン・パラレル構成によってわだかまる、プレイヤーの心理的な矛盾・乖離を、僕はそう思いません。ひとりのヒロインを攻略するということは、彼女を生かすことであるし、ベスト・エンディングに到達し終えるということは、彼女を殺すことである。1PC上で複数のギャルゲーを並行プレイしているというのでもなければ、僕らは現実と同じように、今はある女の子のことを考え、次には別の女の子のことを考えもするでしょう。
この文脈で美少女ヒロインを”消費する”と云われる場合、それはプレイヤーが主体的・意識的・入念に、仮想された彼女たちの生に関わり、死に立ち会うということであり、その喜びと悲しみ、素晴らしさと虚しさを胸に抱えながら、仮想→現実の憑代的な形見(グッズ等)を床に積み上げつつ、永続的に”再婚”し続けていく過程に他なりません。同時にほかのキャラクターに萌えることができるなどと不誠実な風をことさら装っているのは、死別したのだという現実を受け入れられない・受け入れたくないあるいは、自らの品性を貶めて己を罰する意図によるものでしょう。
まあ、バーチャルな美少女にリアルな生も死もありはしません。けれど、僕らの胸に去来するいくつもの思いは決してリアル。かけがえのない思いを抱くことに納得し、自己責任において彼女を生かし、そして殺しているのだと語るのは、詭弁か、気でも触れたのかと思われても、一向に「かまわない」。脳内においてさえ「いつもいつも、模範的である必要はない」んですから。
改めて、僕らは、おたくであるがゆえに、現実に対処するための”腕”を自ら切り離しているといっていい。確かに、短くなった腕ではあまり遠くのモノに届かないかもしれない。いや、頑張れば届くかもしれない。でもひとつ確かなのは、近くのモノは掴みやすくなりこそすれ、抱きしめられないということはないんだということ。そんなメッセージが10話からは読み取れなくもありませんよね(いや無理)。
それにしても、「ぼくらの」は本当に「ゲーム」なんですねえ。Zearthと同じように敵にも人が乗っているような感じだし。敵がいるのは、Zearthがいてウシロたちがいる地球とは別の地球だという(第12話「命のつながり」)。要するに、ギャルゲーにおける複数ヒロイン間パラレルワールドのような関係なのでしょう。プレイヤーの1回目プレイでのaヒロインの世界と、2回目プレイのbヒロインの世界は、同じ地球(物理的)であったとしても全く違う地球(可能的)であるという意味で。そして、その上位にはAプレイヤーとBプレイヤーがいる(この次元ではAもBも同一の物理的・可能的地球?の存在なのでしょう)。Zearthをウシロたちで操縦させているAプレイヤーは、別のロボットを別の人たちで操縦させているBプレイヤーと戦う。ロボット・パイロット同士の代理戦闘という形で。そして勝ったほうが2回戦以降に進めるという、トーナメント戦。
要するに、「僕らの」、面白いです。ちなみにキャラクターデザインは小西賢一さん。「耳をすませば」で天沢聖司が月島雫の歌に合わせてバイオリンを弾くシーンをひとりで担当した人。音楽の野見祐二さんも「耳をすませば」は代表作に数えられています。つまり、耳すマニアの血が騒いでしようがないのですよ。きっとクライマックスではコエムシがカナちゃんにプロポーズするに違いない! いや、僕がしてもいいんだけど!