風水嵯峨氏死去

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僕ね。恥かしい話なんですが。ここ1ヶ月、失業中につき家に居づらいので、深夜はたまにPSoneカーバッテリー付けて車に持ち込んで、PS版の「久遠の絆」をプレイしていたんですよ。一日開放されている4階建ての駐車場の屋上階に止めて。エンジン付けっぱなしで――。

久遠の絆 再臨詔 ナイスプライス!

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1998年発売当時は高原万葉編しかクリアしてなく、10年近く放っておいて今さらですが現在斎栞寄りの元禄編、これをクリアしたら常磐沙夜編もやろうと思っていたのですよ。それが……。
確かにシナリオやシステムは、今プレイしてみるといろいろ"素直になれない"部分はあります。伝奇はともかく転生モノとはさすがに"ケバイ"し、有無を言わさぬ終末思想にも鼻白む部分はある。「E'sリアクションシステム」は、感情はともかく選択された内容を物語としての一貫性に連係しきれていない。けれど、音楽の鮮やかさは10年近くたっても全然色褪せてません。
それどころか、その厳粛としていて艶やか、思わず鳥肌の立つ研ぎ澄まされた和の美意識は、年を経れば経るほどコクが出てきているかのようで。ましてや、一国の宰相が「美しい国」をスローガンに掲げ、憲法の前文に伝統を尊重する文言が検討され、教育においても古き良き日本文化が取り入れられている昨今、「久遠の絆」の音楽は、この時代において必定に要請され、当然に映えているのだといってもいい。
思えば、ゲーム音楽で本当に感動したことは、この10年ついぞなかった。もちろんKeyの音楽は大好きです。感動もした。「ONE〜輝く季節へ〜」の「雨」は墓に持っていきたいとすら思っている。けれどそれは、感動そのものというよりは、癒し。誤解を恐れず言うならば、意識の持っていくところ、品格が違うのです。作品・物語に媚びをうる音楽が一方にあるとして(僕はそんな媚びが大好きだ)、「久遠の絆」、風水嵯峨氏の音楽は、媚びのない、作品とあくまでも対等の関係において高らかに、たおやかに情趣を歌い上げている。声優の演技が入っていないのがまるで問題にならないのは、声優の演じるべき抑揚を、伝えるべき感情を、音楽が、プレイヤーの感性に瑞々しく設えてくれるから。それは自律しているのです。
情感が、哀歓がこぼれてくるような旋律に、僕は確かに涙したのだ。「愁眉」の、「絆」の、「真秀ろば」の旋律が流れ出したコンマ数秒のうちに僕は、パブロフの犬が条件反射のように、心に深い感動を所構わず覚えてしまうのを、10年経った今でも止めることはできない。時代を超えて人々に感動を与える作品であるということは、発売以来移植を重ね、本年も廉価版が発売されたことからも明らかであるけれども、ある意味そんな作品性と離れて、音楽そのものが、僕にとって、とても大切で切実な思い出となっているのです。
「風雨来紀」の音楽はそれとはまた違った、氏の持ち味である日本的な部分が、自然の繊細さ・雄大さへとあるべくして融雪した、広大無辺の大地をそれとして清々しく感じさせる人間的な感触。日常に近いという意味でよくドライブのBGMに採用したものです。「久遠の絆」が劇場音楽だとすれば、「風雨来紀」は情景音楽。耳に馴染みやすいのも頷ける話です。
そう。僕は大好きなんですよ、風水嵯峨さんの音楽が。定例のコミケ開けオフ会で不破さんに「"かざみ"さんです!」ときっちり訂正されてしまったけれども("ふうすい"と呼んでいた)、それでも好きなんですよう。
風水嵯峨さん、死去――。
僕の中でいつまでも鮮やかな発色をしていたカラー写真が、モノクロ写真になってしまったかのようで。サントラには必ず、嵯峨さん本人による、創作にあたってのイメージや思いが全曲書き添えてあるライナーノーツ、内容とともに人柄が偲ばれるようで。惜しいと表現することそのものが悔しくてたまらない。こういうとき、僕はいかに生とか死という言葉を軽々しく用いてきたものかなと忸怩たる思いにさらわれる。
なにもかも、本当かんべんしてくれよ。