「ひとひら」

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 「ひとひら」を見始めた頃は、「これは面白そうなアニメだ」と思っていたのに、途中から見るのが辛くなってきて、でもせっかくだからと最終話までを見終わって今は、なかなか清々しいものを感じていたりする。いったいこのアニメは、何を描こうとしていたんだろう。僕はこのアニメに何を感じたんだろう。
 主人公の麻井麦は極度のあがり症で、意思が弱く、周りに流されやすい。もちろん自信もない。総じて彼女には始め言葉がなかったのだ。そして世界に色がついていない。明るく淡い雰囲気を醸しだすアニメの絵は、白ではない、色がない眩しさと、つかみどころのない幽かさが、思春期特有のセンチメンタルと二重写しになって、麦のありようとしてにじみ出ていたように思う。
 言葉のなかった麦は、夏合宿で感情を爆発させるための言葉を獲得する。しかしそれは言葉本来の姿ではない。そして最終話。彼女はひとりの女の子として、相手に伝えたい意味・意思を帯びた言葉というものを、多分に誇張され象徴的な演出によって、晴れ晴れしくも獲得していったのだ。
 このドラマは、演劇がテーマになっているにもかかわらず、それはシニカルなまでに劇的なことはほとんど起こない。失意と、いくつかの別れが、1年間の、淡々とした時間の流れとともに、どこか無情に描かれていく。才能を見込まれ演劇研究会にスカウトされた麦は、舞台で見事な演技を見せるが、会は解散。唯一無二の親友は海外留学で麦の元を離れ、研究会で束の間の青春を共にした先輩たちは、受験に専念し、卒業へ向かっていく。
 目的があり、個性を持つ、つまり色を帯びている演劇研究会や登場人物との関わりを、麦から失わせていくことで、彼女の寂しさや失意を通して、空虚な眩しさやはがゆい幽かさが、半ば違和感として浮かび上がる。
 何ひとつ成し得ない、形の残らない鬱屈した青春にあって、そうであるからこそ、僕は五感を研ぎ澄まして彼女に何が宿ったかを感じ取ろうとする。僕にとって、青春とは、救いであらねばならないから。
 彼女は、観客であることを辞し、ついに舞台にのぼった。演劇研究会が解散しても、世界という不定の舞台はつねに興行されているということに。言葉はつねに伝えたい意味と理解して欲しい相手とを支度しているということに。彼女は突き動かされたのだ。
 「時間は止められない。じゃあ、どうする?」
 最終回。ある意味これまで時間を止めていたともいえる当の本人、麻井麦がこう思い、誰かのために何かをしたいと願う。それだけで、それが何であるかなんて、僕にはもう関係がないだろう。
 「何の取り柄もなかった私でも、ずっと続いて欲しい夢ができたんです」
 だからこそ、夢と現実と象徴が混濁する、とめどない感情の奔流に鮮やかに驚かされる。どこか演劇染みた含みあるやりとりに、演劇を介して日常が、麦の世界が色づき始めた証しを見出す。
 なんてことはない、桜色に染まる、懐古して夢のようであったと思う類の、麻井麦にとって本当の青春は、最終回から始まったのだ。意味を伝え理解しあうのに言葉が必要なように、夢を伝え共感しあうのに舞台が必要だという解釈。ことここに至って、言葉と、夢とを、ようやく麦が手応えをもって実装した。
 言葉にすればなんてことはない、こんなにも他愛のない、意味もなくくすぐられて思わず退けたくなるようなアニメも、たまには。いい。