新潟県中越沖地震について

 先日発生した新潟県中越沖地震について、いろいろ考えさせられる。3年前に大きな地震を経験した人が、「しばらく大きな地震は来ないだろう」と、災害への備えを怠っていた場合が多いということ。さもありなんと思う。
 大地震は80年とか、100年に一度起こるもので、その周期が東海などで満ちていて、近いうちに大きな地震が来るだろうという専門家からの説明が、人々に災害の備えを促しているのであり、それゆえ一度大地震を済ませば、対策はもう必要ないと思ってしまうのも仕方がないことだろう。
 災害は日常に潜んでいるものであり、いつ起きてもおかしくはないということは、理屈では分かっているのだけれど、しかし人というものは、いつもいつも緊張して、注意しながら生きていくことはできない。張りがあって、緩みを経るからこそ、張ることができる。
 一度叱られれば、しばらく叱られないとか、一度小テストがあれば、しばらく課されないとか、一度生理が来れば、しばらく大丈夫だとか、そういった緩急の感覚を日常において浸透させている僕たちにとって、大地震が立て続けに二度起こるなんて反則なのだ。あってはならないことなのだ。
 だからこそ、対策を怠っていた人々に対してまったく共感を禁じえないし、誠心誠意、支援していかなければならないのだと思う。
 梅雨明け目前のこの蒸し暑い時期の避難場所が、空調のきかない体育館というのも厳しすぎる。
 「東京ドームのような施設を開放して、被災者がバスで移動すればいいのに」と母親が話していた。
 地域ごとにそれぞれ避難場所が定められてあるのはれっきとした理由があるのだろうけれど、東京ドームはともかく、仮設住宅ができるまでの、トイレや風呂、冷暖房といった生活設備から給食設備まで整った災害一時待機所のような施設を、地域ごとに設置してもいいんじゃないかと思う。
 1,2日という短期で済むのなら近所の体育館でもいいだろう。けれど3日以上ともなるとやはり難しい部分が出てきてしまう。避難場所と待機場所は別に用意されていてもいいはずだ。
 冷房の効いたドームでナイター観戦している何万人もの人々を非難するつもりはないが、あまりに救いがなさすぎる。
 電話するごとに100円の募金ができる「ドラえもん募金」というのをテレビ朝日が告知していたが、携帯電話ではできないのだという。なぜできないのか。
 というか、全く使われず毎月無駄になっている僕の携帯電話の無料通話分、今まで廃棄されてきた分を再集計して、全額を寄付したいものだが、そういう配慮はしてもらえないものだろうか。まあ、商店のサービス券を寄付するようなもので、卑しい自己満足に過ぎないのだが。