遠慮してしまう良心 無遠慮に振舞える自負

 ベビーカー増え 車いす優先望む(67歳女性)

 私は車いすを使っています。月に一,二回、デパートに行くのが楽しみとなっています。ところで、私のよく行くデパートには、数は限られていますが、車いすとベビーカー優先のエレベーターが設置されています。ただ、あくまでも優先ということで、一般の人も乗ることができます。

 そのエレベーターが混雑している時、私のためにわざわざ降りて、車いすのスペースを空けてくれる人はまず、いません。それでも以前は何台か見送れば、乗ることができました。

 しかし、先日はエレベーターの扉が開くたびに、ベビーカーが二,三台、乗っていました。とても車いすが入れるスペースはありませんでした。結局、30分以上待って、やっと目的の階に上がることができました。

 最近、べビーカーを使っている女性をよく見かけます。ベビーカーの使用が悪いと言うのではありませんが、車いすとベビーカーが同等に扱われるのに割り切れない気もします。デパートなどには、ぜひ車いす優先のエレベーターを設けてほしいと思います。 (読売新聞投稿欄より)

 果たして、エレベーターの前で(30分も)待ちぼうけを食らっている車いすのお婆さんを見て、誰もスペースを譲ろうと思わなかったのか。乗車していたのはベビーカーを押す女性たちばかりではなかったろう、そもそも人が備える当たり前の良心に照らして、その光景はあまりに非道徳的だ。ひどいとか情けないというのではない、同じ人間としてあまりにも気味が悪い。障害者用エレベーターを前にして、車いすの女性が昇降を見送っているという状況そのものが、僕には承服できない。なんということだ。

 子育てで家に閉じこもりがちな女性にとって、ベビーカーがあることで、気軽に外出し気分転換することができるというのは良いことだと思うし、ベビーカーが使用しやすい環境が整備されていくことも望ましいことだとは思う。子は社会の宝、みんなが大切に扱わなければいけないし、この少子社会、子どもを育てていくことが困難だといわれている時代に、子を産んでくれた女性と、その亭主はまったく素晴らしいと、その可能性がゼロに近い僕などはつくづくそう思う。

 しかし一部の、ベビーカーを持って外出している(例えばけばけばしいなりをした)若い夫婦あるいは女性が、むやみに威圧的であったりするのも事実だ。ベビーカーに子どもを乗せているいないにかかわらず、彼らはまるで「自分たちは社会のために身を犠牲にして子どもを産み育てている。だから社会は自分たちに特別の便宜を図って当然なのだ」とでも言わんかのように、街で、電車で、官公署で、無遠慮な態度をとり、無茶な要望を突きつけてきたりする。

 しかし、子育てが経済的・社会的そして人生的に損失であるという身も蓋もない認識が蔓延しているからこそ、その態度はやむを得ないものとして是認されてしまいがちだ。「子を育てるということは、金銭や時間には代えられない貴重なものなのよ」という上世代からの訓示は、金銭や時間というものの価値が暴騰している今日、実質的にあまり効果をなさないだろう。

 というより、僕らは何も失いたくないのだ。失うことによって何かを得るという方法論を、パッシヴなものは仕方がないとしても、アクティヴなものに関しては決して採用したくない。そして子育てというものは、日に日にアクティヴ化している。

 とはいえ、これはひとつの社会的な問題というよりも、彼・彼女ら個々のパーソナリティの問題であって、十把ひとからげに論じることはできないだろう。「自分は偉い」と思っている人間に、「偉くない」とも、「偉いからってなんでも思い通りなると思ったら大間違いだ」とも、指摘したところで、ほとんど意味はない。意味のないしかもトラブルの火を焚くような行為を誰がするだろうか。しかも面と向かって? 冗談じゃない。

 それよりも悲しいのは、活力に富み心身健やかな若い女性、新しい生命を運搬するベビーカーを前にして、67歳の車いすに乗るお婆さんは、彼女が明確にスペースを譲ってくれる意思を示してくれなければ、おそらく自ら率先して、遠慮なくエレベーターに己の車いすを押し込むことができなかったということ。そのいたたまれなさを内包したもどかしさに、共感せずにはいられない。

 あまねく対等の、同じ命であるはずなのに、僕らは無意識のうちに価値判断している。自身のそれも含める形で。大切にされるということは、偉いということ。命の価値が高いから、偉いのだ。その地位は社会が認証している。ひるがえって、大切にされないということは、命の価値が低いということであり、価値の低い者は、価値の高い者を敬わなければならない。あるいは、敬わざるを得ない。僕らは、僕ら自身の命の価値判断に従って、ベビーカーを押す若夫婦の横着振りを恭しく受容している。新しい命の象徴、ベビーカーという玉璽を振りかざすけばげばしい若者たちに。できることといえば、せいぜい彼・彼女に高位の者としての品格・寛容さを求めることくらいだろう。

 しかし品格や寛容さといったパーソナリティは、求められて獲得できるようなものではない。だから住み分けるしかない。車いす優先エレベーター、ベビーカー優先エレベーター。次は視覚障害者優先ですか。エレベーター内で女性がわいせつ行為の被害を受けないように、そのうち女性優先エレベーターが設置されるかもしれませんね。もう優先とか曖昧なことを言っていられなくなって、それぞれ「限定」にシールが張替えられる。エレベーターに乗るたびIDカードを通し、「コノエレベーターニアナタハノルコトガデキマセン」。

 対人関係の基盤に、他人の思惑を訝しがる性根が巣食うと、譲る・譲られるということが素直に、自然に行えなくなってしまう。前提(お約束)として、他人は信じるものか、それとも疑うものなのか――。僕らは割と決定的な分岐点に立っているのかもしれませんね。