祭りとしてのGvG

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 事情はよくわからないんだが、大手ギルドのマスターが引退するとかで、8/5のGvGはお祭りでした。そういう経緯で一時的にウチを凌ぐ勢力を形成した、このお祭り勢力が、ウチを徹底的に攻め続けるという、そういうヘトヘト具合。攻めるにしても、守られてる砦がなければ話にならないわけで、そうなるとほとんど必然的にウチ(最大手)しかないらしいのですよ、今のtyrでは。
 事前に祭りが仕組まれていることが判明していたので、こちらでも対抗策として、以前組んでいた人たちや傭兵を募っていて、「やぁ久しぶり〜」「元気だった」的やりとりも芳ばしく、平時以上の勢力を構築できたし心の準備も万全だったものの、ましてやこちとりゃ防衛側だというのに、開始直後から転進、転進、てんしんを余儀なくされまして……。少しは粘ったんだけどね(言い訳)。いったい何度攻め取られたろう、3回くらいかな、もう忘れたよ。
 ぐわーんと攻められて、防衛線を突破されて、砦を捨てて。別の砦を占拠したらすぐ偵察が来てぐおーっと大挙侵攻、その繰り返し。2時間ずっとですよ? まったく、普段なら大河ドラマ見ながらポップコーン食べながらチャットしながら防衛するのが楽しみだったのにぃ(何かすごく間違っています)。久しぶりにGvGで疲れた。
 思い出すなあ、椅子取りギルドと大差ない小勢力だったあの頃を。あれはあれで、負けてばかりだったけれど心地よく疲れたし、何より楽しかった。充実していた。
 きっと経費はすごいことになっているだろう、幹部の人たちは今後大変だろうけど(僕はもうそちら側の人間ではない)、たまにこういうお祭りがあったり、勝つにしろ負けるにしろゲームで疲れるという感覚をたまには呼び起こしておかないと、「いったいGvGってなんなのだろう」というネガティブな感慨に陥ってしまいかねない。
 そもそもラグナロクオンラインはシステムが疑いようもなくダメだから、管理者としてはもちろん、GvGギルドとしても何かをしなければ、行動を続けていかなければ、ダイレクトに勢力の衰退へとつながっていく。それは同時に、何が楽しいのかとか、目的とか動機付けとか、こうマンネリ化しきったGvGにおいてはますます、個人の内面に負うところが大きくならざるをえないということも意味している。
 ゲームとして楽しくない、だから楽しいゲームを自分たちで作り出すか、あるいは「楽しい」幻想を共有していかなければならないのだ。
 GvG人口の減少によって、砦を安定して防衛するための勢力構築が著しく困難な現況。果たして、誰も攻めてこない砦を防衛する・空っぽの砦をたまたま見つけて確保することが、勝ちといえるのか。何をもってGvGの価値とするのか。
 それは例えば今回のような、祭りという非日常的で明確な動機付け、異論の差し挟める余地のない目的意識、悪く言えば単純で勢いなだけの内面的一体感は、それが生み出された時点で既に勝ちであり、作戦として成功しようと失敗しようと、全てを包み込んで貴重なGvGとしての価値なのだと、僕などは思う。
 GvGは日常であってはいけない、祭りであるべきなのだ。それはギルド・勢力が一致団結して創り上げる形あるものばかりではない。個々人の内面・態度において自らを祭りあげるというような、形なき祭り。緊張感と表裏をなすワクワク感。
 結局、楽しめるのも飽きてしまうのも、自分。そこに人とのつながりを求めようと、ひたすら強さを求めようと、なんでもいい。オンラインゲームをプレイすることが日常と化してしまっている人々が集うこのMMORPGで、それでも各々がひそやかに盛り上げている祭り成分を、2時間のうちに炸裂させ何がしかの充実感(リアル)を提供(交換)できるかどうか。
 僕らはGvGで祭りを満喫したいのであって、楽しむというよりただ騒ぎたいだけなのだ。気の合う仲間が自然と集まって、意味もなく理由もなく騒ぎたくて仕方がなくなるような、若者らしい品のない朗らかな気質を、ゲームプレイという様式に則りつつも最大限醸しだそうとしているのが、GvGの本質なのではないかと最近思うようになった。
 どこで何を騒ぐとかなんてどうでもいい、騒いでいるということそのもの・一体感が楽しくて仕方がないのだ。そういった心地を組織的な勢力は折り目正しく、椅子取り勢力はそれこそ剥き出しのまま、2時間のうちから抽出する。
 思いきり騒ぎたい、はしゃぎ回りたい。けれど人家でやればそれは迷惑行為に過ぎない。だからこそリアルでは祭りがあり、ラグナロクオンラインにはGvGがあるのだ。そう思うようになると、けっこうすんなりGvGに、自分なりの流儀で楽しく携わることができるようになると思う。
 ま、どちらにせよ騎士なんて阿修羅の一撃で真っ先に沈むしかないんだけどね。