失敗という意味の体感

 バイト先でよく一緒に仕事をしているおばちゃんと、先日話をした。ここ最近僕が味わった、束の間社会人化にまつわる他愛のない災難について、かいつまんで適当に――。
 「まぁ、失敗しちゃったんだね。若い頃の失敗はしておいたほうがいいっていうしね」
 「いやぁ、もう若いっていう年でもないんすけどね……」
 などと浮かして応えしつつも、「失敗」という言葉を聞いて僕は、心のどこかでなにかが"すとん"と落ちてゆくのを感じた。そうか、失敗したんだ。そうだ、こういうことが、失敗というんだ。
 僕はどこかで、失敗という意味をきちんと認めていなかった。確かにこれは失敗だったかもしれないと疑ってはいたが、でも言うなれば引き分け、まだ勝負はついていない。今は不利な情勢だというだけで、負けたわけじゃないんだと。
 でも、「失敗」という言葉をおばちゃんからまともに浴びて、それを認めざるを得なくなって、少し考えた。勝負は適切に区切られるべきなんだ。失敗したり成功したり、しくじったりうまくいったり、誰もがたくさんそういうことを繰り返しているらしいのは、勝負を潔くパーティションしてあるから、だから堂々と繰り返せる。分が悪くなければ取り戻せさえするのだ。
 失敗や負けを認めないで、ずるずると引き分け"気分"のまま勝負を引きずっていては、いつまで経っても勝てるチャンスは訪れない。成功するには、まず今しがたの失敗を認めなければならないんだ。
 失敗という意味を体感した。確かにこれは辛い。けれど僕の失敗など大したことはないんだと今は言える。何しろ、まだこうして元気にブログなどにうつつを抜かしていられるじゃないか。
 先日、32歳の誕生日を迎えた。少々辛いこの状況(リアル)、加齢くらい少し猶予してくれたっていいものなのに(件の給料は猶予されているがねw)。母親とも言い争いをして、正直、最悪のバースデイ。しかし僕はこう考えるのだ。時間が進めば、日本のどこかで幸せな人・金のある人・生きる価値のある人が死に近づいている。ざまあみろだ。そして死にぞこないの僕は、図々しくも生き長らえ、1日でも長く意味なく存在してやろうという思いを新たにする。ざまあみろだ。
 「頑張れる」、とはいわない。頑張ること・努力するにも才能が求められる。今となっては、頑張ったり努力する才能を、僕は大学受験の際に使い果たしてしまったような気がするのだ。それは目標ではなく、いわば結果を受け入れるための人情味ある彩り。だから、「まだやれる」、これでいこうと、思う。