やさしさを武器にする未来

PS2「いつか、届く、あの空に。〜陽の道と緋の昏と〜」、10月25日発売

 僕はこの作品(Windows版「「いつか、届く、あの空に。」)の、特に唯井ふたみ編は、すごく素晴らしいと思っています。女の子が、男の子を「好く」という気持ちを、人間という存在の原点から、大切に、貴重に見つめ上げた、そのあまりに真摯すぎて痛く、それ以上に優しい気持ちにさせてくれるまなざしが、胸をたいへん強く打つのです。
 とはいえ、エロゲー批評空間を見ると評価のくっきり分かれている作品で、「この作品を楽しめる人は幸せだ」というコメントが妙に印象に残っています。だって本当にそのとおりだと思うから。僕も、この「いつか、届く、あの空に。」という作品を素晴らしいと思えること自体、とても幸運なことだとはっきり自覚しています。
 僕は、僕が素晴らしいと思った作品、大好きな作品を、それがどのようにそうあるのかということを、誰かに伝えるということがひどく苦手なので、ふりかえって恥かしい思いばかりして(書いて)きたので、もうしません。しませんよ? ただ、こうしてわざわざコンシューマ化するということは、僕と同じように高く評価するプレイヤーが少なからずいたということであり、さらに加増する可能性があるということなのだろうから、それは素直にうれしい予測であり、正当な評価。
 しかも愛々々が正式にヒロイン化するそうじゃないですか。それはなんて素敵なことだろう。まったく、主人公の○を浴びたというのに、結ばれないなんて、そもそもありえない話だったのですよ。世のコトワリとはいえ、今はとてもホッとしています。愛々々ちゃん、今度は違うのも浴びさせてもらえよな!(※全年齢対象作品です)

 僕がこの作品で、特に感動したのは唯井ふたみとのSEXシーン。そもそもそういうシーンで感動したということ自体、衝撃ではあるのだけれど(ヤキが回ったなという意味で)。そこでは以下のような、処女喪失に関連したやりとりがあります。

 「お主人ちゃんは……痛く……ないか?」
 「俺は……男は、別に」
 「そう……か。それは……良かった」
 乏しい知識から湧き上がったその疑問が、俺の胸を締め付けた。どうして男は痛みを伴わないのだろうか。――そうすれば、彼女と痛みを共有できたのに。

 僕はこのほんの些細なやりとりに、「思いやり」というものの意味について、深刻に考えさせられたものです。
 思いやり・思いやるとは、辞書的には「他人の身の上や心情に心を配ること。また、その気持ち。同情」という意味であり、そこには「想像。推察」が働いている。一般的に、人がなにかを想像したり、推察するには、その対象についての知識や、その事実についていくらかの体験が必要となります。そのうえでこころを、やさしさを相手に配ることが、思いやりというもののようです。
 しかし、知識や体験が欠けているから思いやることができないかといえば、それは違う。自分が相手を思いやることと、自分が相手にやさしくしてもらうということが、違うように、知識がなかろうが、体験していなかろうが関係なく、自らのやさしさは伝えようとすることができる。少なくともその意思自体がやさしさであり、思いやりそのものと言ってほとんど差し支えないだろうと思います。ありがた迷惑という相手方の可能性を棚に上げたうえでの話ですが。
 相手についての知識があり、相手が置かれた状況について同様の体験をしていること、もっと言えば知識や体験を共有した者同士である場合、自らの思いやりは生まれやすく、相手には最大限・真正に伝わってゆくのでしょう。過日の新潟中越地震についての新聞記事で、このような記述がありました。

 現地を取材していて、強く印象に残ったことがある。県内外から多くのボランティアが駆けつける中、池田さんのような被災者自身が、自分の被害はさておいて、お年寄りなど社会的弱者を気遣う姿だ。(略)
 「自分が被災者であったとしても、助け合いによって"つながり"を保とうとするのが人間の本能。そこから生まれた連帯感は、助ける人、助けられる人の双方を元気にします」。逆に自分のことばかりにかまけていると、人間関係にふさぎ込むこともあるそうだ。
 同じ立場の者同士が世話をし合う。そのことで苦しみを克服しようとする場面が、震災の街には少なからず見受けられた。「それが人間の素晴らしさなのです」

 自分の大変な状況を放っておいて、相手の大変な状況の解決に奔走するというのは、ひとりの人間として理解できるところではあります。それは逃げであると同時に、救い。「大変なのは自分だけじゃないんだ」という認識、連帯感は、後日自らの状況に立ち向かわねばならなくなった際の、大いなる勇気の源泉になるのだから、素晴らしいというよりも、健全だといったほうがいいでしょう。
 連帯する、思いやるには、同じく困難な境遇にあるなどといった、深刻な事柄について共有されるものの多くあったほうが、少なくともスムーズにいきます。その点、唯井ふたみとの情事において主人公は、破瓜の痛みについて共有できないということ、男女間の断絶について、悔しさを感じている。
 「自分がこんなにも痛いのだから、相手も同じかそれ以上に痛いはず」という想像、いいかえれば彼女のありのままのやさしさは、思いやりとして主人公はまことに受け取れず、かえって罪悪感さえ生じさせてしまう結果になります。

 ――男は征服することでしか自分の気持ちを伝える事のできない生き物らしい。どうしてだろうな。

 あるいは滑稽ともいえる、唯井ふたみの性知識なさ。しかし、無知であるからこそ純粋を維持できる彼女の思いやりは、主人公にやむなく拒絶され、弾かれた輝きはまるで僕の脳裏に侵入してしまったかのように、そのまま離れずにしようがありません。性的肉体を記号するヒロインの、性知識のなさにつけこむことを"生業"にしているエロゲーファンにとって、これはあまりにも、辛い。みじめすぎます。
 僕らは、拳銃に撃たれるとすごく痛いのだということを、想像できます。推察できます。事実、それでたくさんの人が死んでいるのですから疑いようがありません。そして、拳銃で相手を撃った人は、特に痛くもかゆくもないだろうし、ある種の人間は興奮すら覚えるのだということも、知っています。だからこそ、僕らは拳銃を所持する人を軽蔑し、人を撃った人を憎み、拳銃の所持を合法化する国に憤りを覚えます。それは当然のことです。
 しかしたとえば、僕らが、拳銃に撃たれたときの想像も、撃ったときの推察もできなかったとしたら、どうでしょう。仮にそうだとしたら、撃たれたとして、唯井ふたみのように「自分がこんなにも痛いのだから、相手も同じかそれ以上に痛いはず」と思うことができるでしょうか。自分を撃った相手に、「貴方は……痛く……ないか?」と心配することができるでしょうか。それは各自の人格性いかん。たいていは、自分にこんなにも痛い思いをさせている相手に、憎しみ以外の感情を抱くことなどできないでしょう。
 まったく非現実的で馬鹿らしい、真面目に取りあう価値のないおとぎ話と思われるでしょうが、僕は。この世知辛いご時勢、無知でしか発現不能のかくも無垢なる思いやりでしか、暴力を振るう相手に(振るわれた相手の被る損失に見合う)ダメージを与えることはできないと思うのです。暴力をなくすのではなく、暴力する気を萎えさせる。同床異夢の渦巻く地上において強靭に思いやりをふるうことのできる、やさしさの意志とでも呼べる心のありかたを、半分くらいの人が実装できたとき、具体的な暴力は無視できる程度に落ち込んでいて、世界に(限りなく)真の平和が訪れるんじゃないですか。
 それこそ、おとぎ話ですけどね。
 相手の痛がる姿に興奮する嗜好の人にとって、当の痛めつけている相手から、「貴方は痛くないか」と思い遣られることほど、興ざめなことはないはず。病んでいるこの世の中にあって、正常に病んでいる人々が、不健全に現状維持していくためには、こういった"思いやりの裏返しとしての皮肉"に趣向を凝らしていくしかないんでしょう。あほらしいといえば、これほどあほらしいことはないんですけど。自分のことをあほ以外の何者だとも思ったことのない僕としては、そういうのもアリかなと、思っていたりするわけです。
 思いやりには、相手にとってありがた迷惑以上の豊かな可能性がある。受け取られるのは心地のよいやさしさばかりではありません。僕は唯井ふたみのあの言葉を思い返すたび、みじめな気持ちになるし、とはいえ、みじめだと思えること自体、割と健全な感性だとは思いますけどね。まぁ、それでエロゲーから手が遠のくことはあっても、辞めようとまでは思えないところが、いわゆる救いがたい性というヤツなんですが。
 エロゲーが僕にとってそうであるように、暴力というものも、人間にとっての救いがたい性なんでしょうかねえ……。というかエロゲーがそもそも暴力じゃんよ! という指摘から泥仕合の様相へ――?

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