「天元突破グレンラガン」

 「天元突破グレンラガン」が最終回を迎えました。
 多くのファンがそうであるように、僕もまた、気が抜けてしまいました。これほどまで心酔してしまったアニメというのも、僕個人としては最近珍しい。最終回が特別すごかったというわけではないけれど、兄貴が死んで以来、海水浴の回や総集編で少し息を抜いた気がしたのも束の間、あらゆる話がまるで一般的な最終回並みのテンションでひたすら突っ走ってきたのですから、終わって気が抜けてしまうのも道理です。
 というより、舞台が地球を離れてからというもの、この物語は、ドリルという名の通り、いったいどこまで突き上がってゆくつもりなのか、鳥肌が立ってしまうのを止められないほど楽しみでたのしみで仕方がなかった。あるいは、気持ちが昂じすぎて、なんでもないようなエピソードですら涙腺が緩んでしまった(26話でのヴィラルのあの夢は、反則だ)。大げさにいえば、僕は伝説に立ち会っているんだと、そういう意識を、この最終回を見終わったあと持て余してしまいました。
 余韻などという甘っちょろいものじゃない。なぜだかよくわからないけれど、無性に悔しい。惚れて、麻痺して、敏感になって感覚が反転しているのかもしれません。
 とはいえ、僕はそもそも熱血とかそういう雰囲気に親しみを感じたことがなくて、ラグナのギルメンが妙にプッシュしているので、話を合わせる程度の気持ちで、初めて見たのが、兄貴の死ぬ回(8話)。きっと1話からお行儀よく見ていたら、2話を見ないで切っていたと思う。そういった意味で、僕は幸運でした。
 いきなり熱い男の熱すぎる死にざまを見せられて、「なんだなんだこのアニメは」と思っていたところで、ニア登場。11話のニアに萌えて転んでいた頃にはもう手の施しようがないほど、「天元突破グレンラガン」に心酔していた。人とのそれもそうであるように、アニメや作品との出会いも、不思議なものですね。
 ――ドリル、熱血とは結局なんだったんでしょう。理屈無用、物理法則無視の圧倒的な勢いと、超人的な根性で、仲間を、大グレン団を導いてきたカミナは死に、彼を引き継ぎ仲間を、大グレン団を導き、地球を救い、ついに宇宙を守ったシモンは、しかしたったひとりの心通じ合う女性と過ごすという、他愛のない夢すら叶うことなく、自ら歴史の表舞台から去っていった。
 ありえない、馬鹿みたいなパワーで強大な敵に次々打ち勝つことができるくらいなのだから、自らの死など造作もなく回避できそうなものだし、自らの夢などいくらでも叶えられそうなもの。だって"なんでもあり"の世界なのだから。しかし、大風呂敷上の言語道断な突き上げの厳格な揺り返しなのか、無慈悲なまでの徹底さで、ふたりの主人公は幸せを手に入れることができませんでした。

 「だったら、だったら、螺旋の力をつかえばいい! あの力があれば、ニアさんだってよみがえる。それだけじゃない、死んでった人たちだって……」
 「シモンは神様じゃないわ、ギミー」
 「死んだ者は、死んだ者だ。無理によみがえらせたって、後に続く連中のジャマになるだけだろう」

 もちろん、幸せなんて他人にはかることのできる類のものではないですから、本人たちがどう思っているのかは、実際のところわからないし、孤独を感じているのかどうかもわからないというところに、救いがあるのだけれど。
 ドリルは、貫通した後にそこには決して残らないように、熱血は、やり遂げた後のそこでは決して幸せを築けない、とでもいうのでしょうか。確かに、日本にトンネルは無数にあるというのに、それらを作り上げたドリルを僕はまったく知らない。考えてみれば、それはとても哀しいことです。

 「あ、すげえ、グレンラガンだ。グレンラガンがいっぱいある!」
 「あぁ、そうだな」
 「オレも行けるかな」
 「行けるとも。天の光は全て星だ」

 ドリルとは、熱血である。熱血する者は、ヒーローである。ヒーローとは、主役である。
 主役が主役である限り、脇役は脇役。この世界にはカミナとシモンというふたりのヒーローがいた。ふたりの主役がいた。
 ドリルの力で敵を倒し、仲間を救い、地球を救い、宇宙を救った主役が、そのままの場所で幸せを築いたとしたら、その世界は永遠に彼を主役に据え続けることでしょう。何しろ、幸せとは自分が感じることであり、そのときの自分こそ、主役に他ならないのだから。極論すれば、主役が幸せになったら、世界はそこで完結(終了)してしまうわけです。
 しかしカミナは亡くなり、シモンは去っていった。自分が自分らしくあれる、一度はロシウに否定されてしまったけれど、彼の正論すら熱血でなぎ倒し、主役であることを貫き通し、それを認め、受け入れてくれた、大グレン団という大切な居場所。そこから自ら背を向けた。
 そして20年。みすぼらしい身なり、声はしわがれ、顔には深い皺の刻まれたシモンが、「天の光は全て星だ」と語ったとき、僕は、熱血の、ヒーローの、主役の矜持のようなものを感じずにはいられませんでした。彼は、かつて誰もが輝かしく見上げていたヒーローという存在から、彼を見つめる者の瞳にのみ星を宿す存在へと身を"貶める"ことで、それまで、彼という世界にとってはガヤに過ぎなかった、その他大勢の脇役たちを、星にしたのではなかったか。幸せにしたのではなかったか。
 「後に続く連中のジャマになるだけだろう」
 そう、ロシウは大統領として螺旋宇宙会議の開催にこぎつけ、ヨーコは教育者として子供たちに慕われている。彼らはそれぞれの場所で主役となっていった。正直僕は、成人後のロシウの言動はまったく正当なものだと思うし、彼がまるで憎まれ役のように扱われる熱血世界そのものに、違和感を感じてすらいた。だから、ずいぶん寂しい、報われなさを感じさせるエンディングは、むしろ誠実なんじゃないかと思うくらいです。
 熱血ではどうにもならない、例えば僕らのいる世界に対して。
 「お前のドリルで天を突け!」、彼は何のために天を突いたのか。それは全ての人たちに星を見せるためであり、それは同時に全ての人たちを星にすることでもあったのです。カミナの、シモンの、「無理を通して道理をひっこめる」言動は、理屈も物理法則も無視した"とんでもない"ものであったけれども、ただひとつ、そのエネルギー源だけは厳密に設定されていた。それは自らという星の輝き。彼らは、ヒーローとして、主役として在るというそれそのものをエネルギー源として、熱血をたぎらせ、ドリルを回転させていたのです。
 そのとき世界は、彼らという、最も輝いているふたつの星しかなかった。
 だからこそ、カミナが死に、シモンがドリルをギミーに託したとき、世界は正当な姿、全ての光が星として輝ける世界へと、"進化"することができたのではないでしょうか。彼らは決して枯れ果てたわけでも、自分を犠牲にしたわけではない。ただ、やるべきことを、割り当てられた距離までやりきった。ただ、それだけのこと。
 一抹の寂寥感と人間くさい清々しさをないまぜにした最終話のエピローグに、僕は、熱血の、ヒーローの、主役の美学のようなものの、現世的な息吹を嗅ぎ取りました。シモンが、カミナが幸せかどうか僕にはわからない、けれど、ただひとつ確信を持っていえること、それは彼らがとても美しいということです。
 美学があり、それが美しい。ゆえに「天元突破グレンラガン」は素晴らしいと断言できる。このアニメは自分が鑑賞しないことにはその良さはたぶんわかりません。あらすじだけを読んでみると、どこかで見たことのあるような、ありきたりの作品に思えてしまうことでしょう。誰かの評価を聞いても難しい。この作品の良さは、言葉で表現できない領域にあるものだから。
 「自分が信じる自分を信じろ」。彼らのこのキメ台詞を、彼ら自身が生き様として徹底し、体現し、その姿勢を視聴者にまで求めた。そのストイックなまでの作品主義が、制作哲学が、「天元突破グレンラガン」を伝説にしたのではないかと、今僕は考えているわけです。
 ただ、僕はグレンラガン、映画化するんじゃないかと睨んでいるんですよ。多元宇宙理論を持ち出してきたのだから、TV版のエンディングとは別の、TV版1話で描かれた例のシーンを繋ぐストーリーを、劇場なりOVAで表現してもよいのではないかと。例えばゲーム「CLANNAD」のように、せつなくも感動的なバッドエンドを描いた上で、通ったあとで、幸せなハッピーエンドを贈るというような方法論は、アニメでもありなのではないかなと、これは希望。
 もちろん、「完」と出たのだから、このまま何も付け足すことなく終わってくれて当然、なんですけどね。