「アルトネリコ2」?

■「アルトネリコ2 世界に響く少女たちの創造詩」概観?
 この作品(シリーズ)を特徴づける歌唱・合唱という音楽表現、「詩」は、奏でている者が物語(自意識)であるという認識をプレイヤーに刻みつけ、発声という肉体性は、物語という精神性その宿命的な白々しさを読者において無効化します。「詩」と呼ばれるその音楽形式が作品独自の世界観を主として構築しているという意味で、表現方法として何より絶大であり、その効果も決定的といえるでしょう。
 作品における世界や、物語は、ふつう意識しなければ理解できない。けれど音楽とは本来、意識せずに"聞こえてくるもの"。ましてボーカル曲や合唱曲とは、人間の声を主として構成された音楽形式であり、例えば自分に向けられてどこからか声がすれば、それが遠くからのものであっても思わず発声源を振り向いてしまうように、無条件で意識してしまわざるをえません。
 人の声たる合唱こそが「詩」であり、独自の言語体系に基づいたその「詩」、旋律が、「アルトネリコ」という作品の世界観。意識するとしないとに関わらず、耳が聞こえる限りにおいてその世界は既に、僕らのうちにできあがってしまっているのです。
 つまり、複雑で難解な設定やらをわざわざ理解する必要がない。もちろん音楽によらない理解すべきそれらもあることにはあるのだけけれど、それらはあくまで二次的な彩り、よく理解しなくても、作品理解においてまったく致命にはならないという意味で、とてもやさしい。
 小説や映画のように、現実感覚に沿って設定を理解していくのではなく、聴覚からじかに伝わってくるイメージが、理解以前の感覚として知覚される。ゆえに、観念的で、理想論的で、発想が幼稚で、民衆の犠牲って指の先をちょっと擦りむいたくらいですかと疑いたくなってしまう、キレイゴトだけで構成されている絵空事のファンタジーにあって、僕はこれほどまでに感動できるんだと思います。
 それを受け入れられる感覚であるかぎり、絵空事だろうと非現実的だろうと、感動は、価値がある。ふたりの女の子が心からぶつかりあい、ののしりあい、憎しみあうなかで、受け入れ、わかりあい、互いをかけがえのない存在として認めあってゆくという軌跡を、なんのてらいもなく描くのには、良識や体面といった人間関係の規則にあえて従わないことがどうしても必要です。
 だから、そんなことを斟酌せずに済み、それでいてプレイヤーの理解できる一定の秩序を維持するため、システムとしてインフェルスフィアというアイディアが提案され、御子やメタファリカなどの設定が用意され、それらをごく自然に受け入れてもらうために、「詩」と呼ばれる音楽が、プレイヤーの感覚を強制的に仮想的に"新調"する。
 僕らはきっと、さまざまな技巧を凝らされて、ゲームによって精密に騙されているのです。睡眠療法?入浴?心理戦?はたまた女の子同士のコミュニケーションすらも滑稽なシステムへとやつし、それら蔽いがたい不自然さは、途端積極的にパロディとして笑いに付すことで気を逸らされている。
 あるいは、ちょっと聞けば思わず失笑してしまうような諸々のシステムを、なんだかんだと受け入れ、取り組んでしまうのは、僕ら自身も騙されたいと思っているからなのかもしれません。
 物語としてのテーマにそぐわない、レーヴァテイルの精神やコミュニケーションをモノ扱いし、しいては人を侮辱しているフキンシンなこれらシステム。けれどちゃんとこなさなければゲームとしてクリアできないのだからと、良識や人間関係の規則をいったん休止させて、僕らはずいぶん清々しくいかがわしい覗き見趣味を満足させている。モノ扱いして、システムの俎上に載せて、何を覗いているかと言えば、モノではない、等身大の女の子たちの本性。
 騙すということ。それは必ずしも悪意から生まれるものばかりではなく、たとえば相手のことを思って嘘をつくことがあるように。宴席での雑談で発想された頭の悪いシステム案をそのまま実装させてしまったような、言ってしまえば悪ノリ。しかしその裏には、人間という存在、こころのありように対する真剣なまなざしがある。

「自分の気持ちを信じられるなら、それに正直になればいい」

 何かを表現したい。ゲームとして描き出したい。その何かが誰にとっても価値あるものだという確固たる信念があれば、そのやり方が多少いかがわしくとも、悪ノリに過ぎないとしても。そうすることで、余計なモノがいっさい混じらない、純粋にその価値を、真正にプレイヤーへ伝えることができる可能性があると見るならば、それをしようと。やってしまおうじゃないかと。
 ゲームシステムとは、音楽ほど全ての人にとってまんべんなく好感をもたれるものではありません。ぶっちゃけ、「アルトネリコ2」の音楽がその世界観をプレイヤーへと注ぎ込むようには、流れるようにどうこうなるということはないのです。
 システムとはまず理解されなければなりませんし、規則を覚えてもらわなければなりません。いろいろと条件や束縛が多く、それでいてテキストや音楽ほど重要ともいえない。良くも悪くもあってなきがごとくがちょうどいい。
 けれど、この作品では物語中盤に至るまで奇天烈なシステムの実装が相次ぎます。コスモスフィアとインフェルスフィアを平行して進めながら、定期的なデュアルストーム(これがまた思ったようにいかない)、I.P.Dを探して保護してダイバーズセラピして、良質なムスメパワードを見つけなきゃならないし、ふだんのトークマター集めはもちろん、サイコだのハーモニックだのという戦闘すらまだ十分に理解できてないんだぜというような、システムにがんじがらめになっている状態が、制作者の意図したものなのかどうかはわからないけれど。
 エキサイティング、遊び心、奇想天外、お馬鹿で悪ノリ。それぞれ性格の異なるシステムが渾然一体となって、いや、一体になっているかどうかは怪しいのよ。とにかくそれら愉快なシステム群にあって、ダイブ系システムが描出する妙に生々しく切実なエピソードは、どうしても気になってしまうし、辛い話が続いたときなどは、気楽に楽しめるトークマターや、真面目にやっても仕方がないデュアルストームが息抜きになったりする。システムそのものに起伏があるんですよね。
 この作品のゲームデザイン水戸黄門に例えるなら、音楽は印籠で、システムはその前の剣戟。悪人たちを叩きのめし、大人しくさせてからでないと、印籠を見せてもみくびられるし、黄門様の説教も意味を成さない。システムでプレイヤーをあきれさせ、それでいて楽しませ、この悪ノリに素直になってもらわないと、音楽は作品から蒸発してしまうし、真剣なテーマ性もろとも物語から親身さが剥脱してしまうのです。
 助さん格さんが剣で悪人を懲らしめるのは、暴力である以上あまり褒められたことではないけれど、そうしなければ黄門様の説教が相手にきちんと伝えられないから、許されている部分があります。そもそも敵のほうから「お前らやっちまえ!」と襲いかかってくるのですから、これはもう仕方がない。
 しかも視聴者は、その剣戟シーンも大きな楽しみのひとつです。
 それと同じように、「アルトネリコ2」の豊富なシステム群、「お前らやっちまえ!」と容赦なく襲いかかってくる"彼ら"の悪ノリが、プレイヤーにとって大きな楽しみとなりえているか。それはひとりひとりが己の感性で判断することですから、何ともいえませんが、個人的には楽しい半分うんざり半分といったところ。事情は少し複雑です。
 だらだら繋がっていく本編(?)、クロア×クローシェ(?a)、クロア×ルカのコスモスフィア(?b)。さらにはクローシェ×ルカのインフェルスフィア(?)という、中盤における混沌極まるストーリー展開。?はともかく?などはもう悪趣味といっていいくらいどろどろの修羅場で、単篇としてさえ気が滅入るというのに…。
 自分はいま何をしているのか、これから何をしなければならないのか。物語とシステムの狭間で路頭に迷うなんていう経験は、そうそうできるものじゃないけれど。そんな中にあっても、自分の中でシステム実施に優先順位をつけて、混同せず、そのうえでヒロインたちの内面とその成長を物語として体系づけ、それを本編と関連づけていくというような、頭脳的に能動的なプレイ態度がプレイヤーには求められています。
 「アルトネリコ2」において重要なのは、作品を楽しむための"システム"をプレイヤー自身が構築していかなければならないということ。それはプレイデザインと言ってもいい。取説には記載されていないけれど、1時間ごとに15分の休憩を取ることより、それはかなり大切です。
 とにもかくにも、作品がプロデュースする不条理な面白み、真摯な本質とは、音楽によって既に研ぎ澄まされていて、システムによって初めて具象化されている。物語を構成する言葉は、言ってみれば作品にとって"アリバイ"でしかないのかもしれません。作品が、そうあったのだということの。
 ノベルゲーよろしく「物語を読む」のではなく、「物語をゲームしている」のだと。ひるがえって僕は、そう確信したかったからこそ、戦闘モードを安易にeasyにできなかったのかどうかは、まあ知ったこっちゃないですけどね。