食わず嫌いとひそかな好作、「メイプルストーリー」

 キャラクターデザインで勝負にならないと思われていた、「メイプルストーリー」が、実はひそかに良作かもしれません。
 ひとことでいえば、日曜日の朝に放送するのにふさわしいスタンスとでもいえばいいでしょうか。
 枠組みとして教育上・道徳的な好ましさをまったく外れることなく、けれどもちょっとしたやりとりに感じられる軽妙なおかしさ。
 すがすがしい日曜の朝をいろどるのにふさわしい、人間のやさしさを謙虚に描こうとしている脚本の妙技は、まるで良質な日本名作劇場を見ているようで。嫌味やけれんみのないシンプルで微笑ましい物語は、それ以外のアニメ作品がいかにおたく的知識や感性、お約束に依存し且つ束縛された関係性を僕らに強請しているか、気づかされます。
 きっといろいろリセットされます。特にこの後の「ハ○テのごとく!」とか、同じアニメとして括って欲しくないよなあ。
 さて、本題は「メイプルストーリー」初見にして第7話の「母さんは大どろぼう」です。
 アルは盗賊の族長アンジから、黄金の花瓶を盗んだ犯人を探して欲しいと依頼されます。「どろぼうの家に入ったどろぼうを捕まえることは、いいことなのか悪いことなのか、それが問題だ」と悩みながら家に帰ると、母親が当の黄金の花瓶に花を生けているじゃないですか。夜更けにこっそりと外出したり、盗難現場に残された足跡が母親の靴であることが判明するなどして、アルは母親への疑いを強めます。
 悩みぬいた末、アルは自分が犯人だと嘘をつくのです。しかしアンジは信じません。

 「前にも言ったはずだ。お前には人のものを盗む度胸はないとな。それにお前の足跡はとっくに調べてある」
 「足跡は、オレが母さんの靴をはいて――」
 「嘘をつけ!母親の靴を履く息子がどこにいる」
 「はっ!」

 この時点でアルは、母親が犯人であることがバレてしまったと思ったのだろうし、僕もまたそう思いました。しかしアンジはなぜか、アルが庇っているのはニーナだと決めつけます。手下にニーナ捕縛の指示を出し、「お前はさっさと家に帰って、母ちゃんの手伝いでもしてろ」と、突きとばします。
 変だな、どういうことなのかなと、ここでアルと視聴者はシンクロするわけですよ、「どうして母親は疑わない?」と、アンジを疑います。
 「ま、ニーナなら魔法で上手く逃げるだろう」とアル。しかしニーナはいい迷惑です。「ほんとは誰を庇ってるのさ」と尋ねられたアルは、思いつめた表情で「オレが困っているのは、母さんのことなんだ」と告白します。するとニーナはいきなりアルを頬を叩き、こう言うのです。

 「アルを見損なったよ。こんな情けないやつだったとはね」
 「情けないだと?」
 「たったひとりの母親を疑うなんて、情けないじゃないの」
 「でも、あの花瓶の燭台も足跡も…」
 「アル、あのアンジだって、あんたたち親子のことはこれっぽっちも疑ってなかったんだよ」
 「あ……」
 「それが母親を疑うなんて、最低だよ」

 アンジのあの不審な決めつけは、アルと母親がどういう人間か、よくわかっているからこそだったのです。たとえ現場に残された足跡がアルの母親のものだったとしても、アルは母親のことを疑わない。だから庇うはずもない。アンジはそう考え、母親以外でアルが庇いそうで、かつ盗みも働きそうな存在はニーナしかいないことから、ニーナを犯人だと決めつけたというわけです。
 母親が大切なのは当たり前。疑うのが悪いということもまた、誰でもわかっていることです。けれども人にはいろんな側面があって、大切なはずの母親のことが厭わしく感じられたり、場合によっては疑わざるを得ないような場合も、ままあります。しかもそれは自分自身が思っていることなので、自分で変えようとしてもなかなか上手くいきません。
 大切なものがなんなのかわかっていたとしても、それを大切にできるかどうかということは、また別の問題なのです。
 そういうとき、第三者に「お前はそんな人間ではないはずだ」と言われると、それが彼の思い込みに過ぎなくとも、彼が信じる価値のある自分の姿というものを、それが自分本来なのではなかろうかと、見つめ直す・思い改める機会となります。それがたいへん貴重でありがたいものだということを、僕たちは経験上よく知っています。
 そういった人生のコツみたいなことを、人生を悟った老人なりに説教くさく喋らせるのではなく、なんと盗賊の族長に、しかも言葉ではなく、盗んだものを盗んだ犯人を推理する過程に潜りこませるといったところが、馬鹿らしい分親しみがあって、余計ごとである分思いやりを感じませんか。
 たとえば、悪いことをした生徒を、気づいているはずなのにいっさい叱らず、まるで悪いことをしなかったかのように普通に接してくる教師の姿から、自分がどれほど悪いことをしたかということに気づくというような場合、その悪いことをその生徒は今後容易に犯すことはできません。
 何しろ、それが悪いことだと決めたのは、他の誰でもない自分自身なのだから。そして、悪いことを悪いことだと気がつくことのできる人間というものは、悪いと思うことを、進んでするようなことはない。良くも悪くも、自分が思ったことを自身で修正することはできないのです。
 アルは気づくことになります。そして、「どうして母親を疑わない?」と疑っていたアルとシンクロしていた視聴者だからこそ、手ひどくやられてしまった。制作者の術中に見事にはまってしまった。
 母親を信じるということに象徴される、守るべき大切なものを、あの瞬間守れなかったのだという事実と、その痛み。「お前はそんな人間ではないはずだ」と、シナリオは巧緻に真摯に僕らをそうして打ちのめしたのです。それはたいへん貴重で、ありがたくて。
 思えばこの「メイプルストーリー」の前番組「天元突破グレンラガン」では、「お前が信じる俺でもない、俺が信じるお前でもない、お前が信じる、お前を信じろ」と言います。一見「メイプルストーリー」の第7話と相反することを言っているようですが、根底では同じことだといえます。
 それは、自分がどうしたいのか、ということ。第三者が決めつける自分の枠を取り払いたいのか、それとも第三者が信じてくれる自分の姿を取り戻したいのか――。「グレンラガン」が終了してしまって、その後番組などチェックするどころか存在自体に憤っていた「メイプルストーリー」。ところがどっこいなかなかどうして良質なアニメーションじゃないですか。
 まあ、原作をプレイしようとまでは思わないけどね。