「心は他人から贈られるもの」

 心はどこにあるのかと考える。自分の中に誇りやプライド、他人にないものを一生懸命探そうとするが、心は他人から贈られるものと考えたらどうだろうか。他人に大事にされる体験をすると「人が大事にしてくれるなら、自分の命を粗末にしてはいけない」と思える。大事にするという行為があって、初めて心が生まれると思う。(11/26付読売新聞朝刊)

 鷲田先生は相変わらずいいこというなあ。
 「心は他人から贈られるもの」。
 僕がこの言葉を読んで真っ先に思い出したのは、つい最近見たアニメ「CLANNAD-クラナド-」第8話「黄昏に消える風」、風子に関する記憶がほとんど消え去ってしまった春原が、感覚として語った台詞でした。

 「岡崎、渚ちゃん、聞いてくれよ。僕さ、そいつのこと、嫌いじゃなかった。そんな気がするよ」

 存在が消えるとか、記憶がなくなるだなんて、原作を知らなければ古くさく胡散くさくてまともに見ていられないファンタジーだけど。春原にとって、木彫りの鵺を作り合ったり顔を突かれたりした、風子との馬鹿らしいさまざまなやりとりの記憶が失われて、それでも残る何かが、きっと心なんだろうなと思ったのです。
 木彫りのヒトデを人に贈るという行為は、実体を持たない彼女にとっては、虚飾のない、ただひたすらの心。風子に贈られ、改めてそれを受け取った春原は、「なんで僕こんなもの持ってるんだろう」と不思議がります。それはもはや、ものとしての実体はなくて、かつて心が宿っていたことを示す残滓でしかない。誰からの贈り物かということすら、わからない。
 にもかかわらず、彼はたしかに感覚する。智代や杏にはできなかった、ことみや有紀寧は現れることすら叶なかった、ヒトデに刻まれた心のお返しとして、春原は、黄昏と消える間際の風子に心を贈ることができたのではないでしょうか。それは人としてとてもつよい思いやりの心だと思うんです。
 原作をプレイしたときも思ったけれど、このシナリオの春原はすごいと思う。だって、風子と四六時中いつもいっしょにいた朋也や渚が、彼女のことを最後まで忘れないのは当たり前。それに比べて、いつも一緒にいたというわけではない、というよりよこしまな動機で気に入られたい渚の、おまけ的に付いてきた風子に、暇つぶしとしてちょっかい出していたに過ぎないというのに。
 (存在論的あるいはお約束として)やさしくて思いやりにあふれているヒロインたちよりも、主人公の男友達に過ぎない春原が、"贈られた心に対して礼儀正しい"という意外性、あるいは皮肉。
 突拍子もないご都合主義を一身に背負い、ひたすら狂言回しに徹する彼に対する、それは多少の罪滅ぼしか、報酬か。原作でもそうだったし、アニメ版でも予想していたことだけれど、このシーンはやはり"ぐっ"ときましたね。
 脇役の、どちらかというと冴えないキャラクターが、重要な場面で活躍するというのは、定番ながら本当に堪りませんね。誰もが主役になれるわけではないけれど、それでも少しくらい見せ場があっていい。世界の端っこに引っかかりながらささやかな幸せをつかんで欲しい。それは、大仰な物語であっても、面白みのない人生であっても同じこと。
 僕らの共感・同一化が、春原に心を贈る。彼は馬鹿でどうしようもないけれど、けっこういい奴だと、作品は返礼してくれた。そういう意味で「CLANNAD-クラナド-」という作品は、僕らを、けっこう大事にしてくれているんだと思うのです。
 大事にしてくれるから、僕らは作品に精一杯の心を解釈しようとする。だって、粗末にできるわけないものね。