「ANGEL TYPE」と「聖アンのフーガ」

それは最近、彼女が息抜きにと弾いていた曲だった。
 J.S.バッハ作曲、「プレリュードとフーガ 変ホ短調 BWV552」。
 minori信者だったらもしかしたらご存知かもしれません。世間的(笑)にはあまりパッとしなかった「ANGEL TYPE」という作品のなかで、病院から走り去った川原砂緒が真夜中の学校で弾いていた曲です。元々はオルガン曲で、それをピアノにアレンジしたものを彼女は弾いていました。
 作中のBGMとしてはあまりにも露骨なコンピュータプログラミングで、味わいもへったくりもあったものじゃなかったけれど。バッハのオルガン曲をピアノで演奏しようという"考え方"に興味を惹かれまして。どういうことなのか、ずっと気になっていました。
 しかしプレイした当時、(先日潰れたと書いた)taharaのクラシックルーム担当員に尋ねたら、知らないというので諦めていたんです。それが、別名「聖アンのフーガ」というんですけどね、この曲、ブゾーニという作曲家がピアノ版として編曲していたということがわかったんです。しかも、この曲を収録した海外のCDがNAXOSから今年の2月に発売された(というか輸入ね)というじゃないですか。
 それで、さっそく手に入れてみました。
 「J.S.BACH:Piano Transcriptions・2」(J.S.バッハ作品のピアノ編曲集第2集)。
 最近売り出し中の若手ピアニストの演奏でも別に構わなかったんだけど、なぜかすごい歴史的演奏で(録音は1925〜1950年)、今回はその復刻版。
 ざわざわと耳にもったりと響く、黒鍵から埃が舞うほどに生身の温かみが、いかにもアナログという感じでたまりません。生きている心地というんですか。リアルとはそもそもこういうもん。デジタルなんてしょせんバーチャルですよ。
 人間(エトヴィン・フィッシャー氏)の演奏する「プレリュードとフーガ 変ホ短調」を聴いてみて、確かにこれはコンピュータに演奏させたくなる気持ちも分かります。なにせすっごい超絶技巧曲。そもそも足ペダルも駆使するオルガン曲を、和音の重厚さや華麗さを失わずにピアノの両手のみで演奏しようというのだから、想像絶する難度を要求するのも当然でしょう。しかもそれを(さすがにノーミスとはいかないが)まず完璧に弾ききっているというのだから、歴史的名演といって差し支えありません。
 「ANGEL TYPE」では主題のフーガがちょこっと演奏されていただけだけれども、この流麗で深遠なパッセージが曲として明瞭に配置され、丁寧に積み重ねられ、大胆に再現され、そうして和声/技法/展開という荘厳な構築美(フーガ)の三次元的拡がりは、聴く者を圧倒させてやみません。
 あるいは、ピアノという"感情的"でありうる器楽が、かくも宗教音楽の傑作を同スケールで再構築できたこと、まるで聖母的な優美さと女性的なエロスとに分かち難く恍惚とするように、理知と感性が司る人間というまぎれもない"生き映し"、情操の奔流を川縁でしじまに端倪しているかのよう。
 アニメの劇伴ばかりじゃなく、たまにはこういう本質を嗜むのも、いいよね。
 オルガン曲を聴いていると、僕は息を吸うのを忘れます。もちろん最低限の呼吸は行っているのだけれど、演奏が終わると、思わず思いきり息を吸い込んでしまうのです。しかしピアノ曲を聴いているときはむしろ、自身の息づかいにいすら気をつかう。
 それは、聴いているときの僕、僕の精神がいったい何処にいて、何に向いているかということそのまなざしの座標を、そのありかの違いを如実に物語っているのかもしれません。