細木数子について考えてみる。

 細木数子が出演している番組のひとつに、彼女が直々に調理することで有名な、"おふくろの味"を紹介するコーナーがあるんですけどね。その回のテーマがすいとん
 すいとんっていうのは、改めて説明するまでもないと思うけれど、味噌ベースの汁に野菜中心、だけど冷蔵庫にあるものならなんでもOK、いわゆる具沢山のお味噌汁に、小麦粉に水を加えて練って適当な大きさにちぎったもの(これを狭義の「すいとん」という)を加えた料理。戦時中多くの子どもたちのお腹を満たしてきた、まさにキングオブおふくろの味といっていいレシピなのに、ですよ。
 細木数子は、すいとんなのに「すいとん」を入れないというんです。すいとんじゃなくてお餅を入れてる。その点をつっこまれると、「今の子はすいとんなんて食べないでしょ、馬鹿だねあんたは」というようなことを言うんです。
 ちょっとちょっと、それは違うだろと。
 おふくろの味というのは、しあわせの味というのは、今どきの子の口に合うとか合わないとかいう程度で簡単に変えていいものじゃない。すいとんなら、頑固なまでにすいとんであり続けるべきなんだ、そういうものでしょう。
 そんなことはきっと誰だってわかっている。共演していたタレントも、視聴者も。意図してかどうかは知らないけれど、細木数子という人物は、あえてそういう人々の共通認識を無視して、嘲笑うかのように素っ頓狂なことを暴力的に突きつけてきました。すいとんのことに限らず、政治や社会、人生論においてしかり。
 ご意見番というより、彼女はその存在からして異端だったのです。
 初めのころはもの珍しさあり、一風変わった"空気"を提供するという意味で貴重な存在だったのでしょう。タレントは誰もが同じような態度を取り、若手芸人が既定のボケとツッコミで間をもたすバラエティ番組において、特異なキャラクターであるということそのものが価値だともいえます。
 また、諸々の事情があり誰もが口を閉ざすようなことを憚らず、あまつさえ断定してくれるというのは、良くも悪くも一様に喝采されるもの。強いメッセージ性という意味では、小泉元首相がもてはやされた世情の系譜を引きずっているのかもしれません。
 "決断主義"とまではさすがに言わないけれども。
 彼女自身ずいぶん"変わった"経歴の持ち主で。本人は過去のことを滅多に話さないけれど、あれほどの胆力を実装するには普通の人生では到底不可能だし、政治家でもなかなかいないんじゃないかなあと思うくらいです。
 でもさすがに最近は持て余され始めてしまった。共演するタレントは明らかにそうだし、朝青龍問題のあたりからは視聴者にとっても、「細木数子はちょっとアクが強すぎる」と認識され始めたのではないでしょうか。そして一度そう思い始めてしまうと、当時は面白おかしく見ていたことが、「そういえばアレってずいぶん不愉快だったわね」という風に、遡って印象が180度ひっくり返されていってしまう。
 売れない芸人にヘンな名前つけたり、妙な芸を仕込んだりと。いきなり現れて、何の実績もなく偉そうにふんぞり返って、結局ただのお調子モノだったんじゃないか、とんだ一杯食わせ者だぜと思われてももはや仕方がありません。
 3月でテレビから完全にいなくなるからそう思ってしまうのか、そうみんなが思い始めたからいなくならざるをえなくなったのか、そんなこととは関係なく彼女自身の気まぐれなのか。まあ、いなくなるならそれに越したことはないとこれは僕の正直なところ。
 でも、素人相手に人生相談をする限りにおいては、細木数子ほど優れた人物はいないのではないかなあと思ってもいるのです。
 同番組に、素人の人生相談に細木数子が回答するというコーナーがあります。まず共演者やゲストが回答するんですが、彼女の回答はたいていそれらとは全く逆をいくもの。細木の回答、結論を聞いた瞬間こそ「何言ってやがるんだこのばばあ」と思うんだけども。ちゃんとした説明を細木数子から聞くと、「なるほど。まあ完全に納得したわけではないけれど、そういう考えもあっていいよね」と思わされるというケースが、多々あります。
 ぶっちゃけ、専門家でもない人間に答えられる程度の人生相談なんて、相談している時点でほとんど答えは出ているようなもの。そのうえで、相談者にとってもっとも意味のある回答とは、相談者とはまったく異なる視点であり、意見だと思うんですよ。
 「辛かったんだねー」とか「それはアンタが悪いよ」といった、相談者と同じ視点に立った見解は、同情であれ非難であれ相談者自身が己に対して既に幾度となく繰り返されてきたやり取りに過ぎなくて。傾聴と相談は違うというのであれば、相談者と共通の認識をあえて無視して、嘲笑うかのように素っ頓狂な見解を暴力的に突きつける細木のような回答、というより回答の仕方こそ、相談者にとって、結果的にもっとも積極的な意味を持ちうる"接触"ではないかと思うんですよ。
 物分りのいい分身ではなく、本当の意味での他者として意見を提示できる、そういう意味で細木数子という人物は非常に貴重なんじゃないかと思うようになったのです。内容云々じゃない、他者の意見というものに触れることで初めて、相談者は自身の問題を相対的に認識できる"下準備"が整う。その後は当然本人次第なんだけれども。
 「相手が悪い」「それとも自分が悪い?」という子ども染みた二元論をちょっとだけ超越できる"きっかけ"を、ありがたくてありがたくない肝っ玉ばあちゃんが気風よく投げつけてくれる。それは彼女なりのあまりにも遠回りなやさしさなんじゃないかなあと、思われないでもありません。思いたくもないけどね。
 また、まるで決まり文句のように、「墓参りしろ」「先祖の供養を怠るな」といったフレーズを彼女が多用するのも、信心深いからというより、むしろ不運なこと、不幸な出来事は全部先祖やら仏やらのせいにしちゃって、現世くらいせいぜい楽しく生きりゃいいのよと言っているように僕には思えてなりません。
 「墓参りしろ」と言われて、「ちゃんとしてます」と答えられる人はそうそういないですから。素直に受け止めるしかない。
 そのうえで、墓参りしてあるいは仏壇で、花束を供えて線香を焚いて手を合わせ、その数秒でいちばん救われているのは、祖先はどうか知らないけれど、少なくとも手を合わせている本人ですからね。つまり「己をして己を救いなさい」「楽にしなさい」と、これもまた遠回りにすぎるやさしさだと解釈できなくもありません。
 果たして、アントニオ猪木に叩かれることで勇気付けられるように、細木数子もまた、ことさら馬鹿にしたり暴言を吐くことで相手を勇気付けていた……のかどうかは知りません。それはつまるところ叩かれた本人の感性次第ですから。痛いものは痛い。
 というか僕は細木数子がだいっ嫌いなんですってば。でも食事中とか、母親が居間で彼女の出ている番組をよく見ていたものだから、どうしても意識せざるをえなくて。この3月でテレビからいなくなるというし、その記念に、彼女のことをちゃんと考えてみようと思ったのでした。