大人の階段とはそういうものだ

 この4月から始まったアニメ「紅 kure-nai」の第5話「望み」Bパート、五月雨荘の住人たちの宴会騒ぎが妙に面白くて、そのシーンだけ20回くらい繰り返し見てしまいました。
 「紅 kure-nai」アニメ公式HP
 すっかり酔っ払ってぐだぐだになった武藤環が、崩月夕乃との関係で真九郎にしつこく絡み、それを愚直かつ気弱に否定する真九郎。しかし無垢な紫が彼の弁明を否定するようにふたりの関係について"証言"し、同じく酔っているのか闇絵は冷静のようでどこかズレた指摘を差し挟む、湯豆腐を囲んで繰り広げる不毛で珍妙極まる団らんが、もうね、最高でした。
 それとはいっさい関係なく寒空の下、ラブホ前で張り込みをしている弥生の愚痴も実にいい味。
 これらは物語的にはたぶん意味がないんでしょうけど。このたぐいまれなる臨場感というか、誰にでも経験がある、もう盛り上がりすぎちゃって心の統制がきかず、全然くだらないことなのに腹がよじれるくらい笑えてしまうというような、あの涙が出るくらい可笑しい感じを、湯豆腐を"ほふほふ"美味しく食べている紫を通して僕も共感しているんだなあと、思ったのですよ。
 湯豆腐を、夏でも普通に食べてるくらい大好きだって話をついこないだ書いたというのもあるかもしれませんね。
 盛り上がりたいから盛り上がっている、この際話のネタなんてなんでもいいわけですよ。やりとりの結果笑うのではなく、笑いたいから笑うんだ。
 つまるところ、自分は何をしなければならないとか、どうにもならない宿命とか譲れないこととか、物語にとって意味のある、えてして堅苦しいそういうことが、団らんの渦中の人たちにとってのみならず、視聴者に対しても、どうでもよくなるというような感覚を、ただひたすら可笑しいだけのこのシーンは見事に"付与"してくれていて、それは大局的に見ればものすごく作品的なことなんでしょうね。
 それは刹那的で逃避に過ぎないのかもしれません。僕は原作を知りません。ただ、このシーンがとても好きなんだということが言いたいだけです。

「やはり日曜日というのは楽しいな」

 真九郎たちのやりとりをほとんど理解してないくせにそんな述懐をする紫の、だからこそ混じりっ気のない大切な気持ちを、五月雨荘の面々が馬鹿らしいほどのアホらしさで今まさに育んでいる、いとおしんでくれている、そんな健気な心意気が胡散臭さとかわざとらしさと無縁でいられるのは、この作品がプレスコ収録だからなんだろうなあ。

「紫も食べてー!!」

 ごふぉぁっ!(吐血)