メロキュア メロディック・ハード・キュア


 今頃何聴いているんだろうね、まったく。
 このアルバムを聴いてまず感じたのは、「ああ、そうだ岡崎律子さんは『女性』だったんだ」ということでした。というか何フキンシンなこといってるんだろうね、まったく。
 楽曲の提供先であるアニメ作品を一切知らないので、愛着とかイメージとか全然なくてただぼけーっと聴いているだけなのですが。純粋なキュートさと個性的な声色のバランスが、張りのある歌唱力と伸びやかな表現力に裏打ちされていて、恰幅のいいアイドルシンガーって感じの日向めぐみさんボーカルは、とても安心してときめく聴き心地ですね。
 岡崎律子さんはいまさら言うまでもないことだけれど、バックコーラスとして最適の、その吐息のような存在感が純度の高い感情性を聞き手の耳にしなやかに染み渡らせつつ、普段の生活でどうしても入ってしまう、溜まっていたりする心のわだかまりを解きほぐしてどうしようもない、"やさしい"ソロボーカルは、ほんとう素敵過ぎ。
 そしてこの日向めぐみ岡崎律子デュエットは、なんというか、互いの美点が、互いに欠けている部分があるわけでもないはずだったのに、補って、輝いて、デュエットであることすら忘れてしまうほどの自然さ。
 さすがはメロディメーカーのキャッチーな曲調はとても親しみやすく、等身大で潤しい恋愛と恋人たちのほかほかなハートがちりばめられた歌詞。あらためて、というよりまるで初めて知ったかのような驚きをもって、岡崎律子さんがごく普通の女性であったという、その心をベースに音楽を創ってこられたのだなーということを、しみじみと思わずにはいられないのです。

「きく」  星野富弘

よろこびが集まったよりも
悲しみが集まった方が
しあわせに近いような気がする
強いものが集まったよりも
弱いものが集まった方が
真実に近いような気がする
しあわせが集まったよりも
ふしあわせが集まった方が
愛に近いような気がする

 よろこび、強さ、しあわせ、それらうつくしきもの、この世界において普遍的にさいわいである肯定的な属性は、悲しみ、弱さ、ふしあわせ、それらみにくきもの、この世界において普遍的に好まれざる属性を前提として、相対的な仮初の意味を与えられているに過ぎないという示唆は、僕らにとっての共感のアンテナが、それら好まれざる属性をベースにしているという前感覚的な確信を導きます。
 人というものが、共感することができるのは、それは、自分も含め誰もがみな、しあわせ、真実、愛を求めて生きさまよっている悲しい、弱い、ふしあわせだという"共同意識"を、その存在の根拠にしているからではないでしょうか。自身が醜い存在であると知っているからこそ、美しいという感性を見出すことができるように、善き存在へと変わろうとする人の意思こそが、希望のともしびであるように、人は共感することができるからこそ、生きていけるような気がします。共感することに説明も根拠もいらないのは、つまりそういうことなのでしょう。現に僕らは生きているのですから。
 よろこびや強さ、しあわせは自分ひとりがかみしめることができる、自分以外の誰に説明したり理解を求めたりする必要のない(独存的な)価値であるのに対し、悲しみ、弱さ、ふしあわせは他の誰かにわかってもらって、共有化することによって初めて輝きだす(連繋的な)価値であるという意味でも、それが"近い"理由であるのかもしれません。

精神のアレルギー症状

 普通の人なら気にしないようなことがらについて、気にして、くよくよして、心が参ってしまう人がいます。
 普通の人なら気にするようなことがらについて、気にせず、飄々と、まかり通ってしまう人がいます。
 普通の人ならどうということがないような花粉や食べ物について、鼻水が止まらなかったり体にじんましんを起こす人がいます。
 僕のように無意味に健康な人間もいます。
 身体と同じように、精神にもアレルギー症状があるんじゃないかと最近思います。人生、横着に鈍感に恥知らずに生きるが勝ちのように思ったりもします。ただ、そういう人間と係わり合いになりたくないとも絶対思います。そうありたいと望みつつ、そうある人間が許せない、このあたりのジレンマが、自己中心世界の最期のあがきなのかもしれませんね。