アドベンチャーゲーム多次元論

 だが個人的に仕方がないで済ませられないのがプレイヤー視点の取り扱い方だ。そもそもゲームというものはプレイヤーの視点とその操作をもって"事をどうにか"してもらうために作り出される創作物であるのだから、それは物語の最大の謎にしてしまうものではなく、ゲームシステムとして、ゲームプレイとして実践すべき性質が本来であるはずなのだ。つまり僕が言いたいのは、物語でプレイヤーのことを第三視点であり四次元的存在だとか表現しているにも関わらず、実際僕らプレイヤーがやっていることはせいぜい二次元的操作に過ぎないのはおかしいのではないかという点だ。

 「第三視点発現」といいながらゲーム自体は依然として従来的なノベルゲーム形式、つまりテレビ画面を見ていなくてもボタンさえ叩いていれば物語は進んでいく(茜ヶ崎空は僕らが見ていなくてもヤミオニをしている)、そんな物語内容(とその中で語られるプレイヤーの"性質")とゲームシステムの食い違いが僕の中でどこか腑に落ちない最大の原因となっているのかもしれない。第三視点や四次元的存在といったプレイヤー視点(とその存在)の性質が単なる言葉としてテキスト上で扱われ、そうしてあげつられた"ブリックヴィンケルさん"が「そうであーる、この私が第三視点であーる」とありがたいお言葉を述べられているのである。こりゃもう笑うしかない、最高に出来の悪い冗談である。

 話は少し戻るが、ノベルゲームはやはり二次元的ゲームシステムだということができるだろう。基本的に点(オープニング)と点(エンディング)を直線で結んでいるわけだから一次元的だけれども、選択肢を選択することで進む道を選ぶことができ、その道は平行し交錯し時には合一するのだから、二次元的構造をしていると考えて間違いないだろう。

 では三次元的ゲームシステムはどのようなものだろうか。それは僕が考えるに、「EVE burst error」のような複数主人公視点をベースにしたアドベンチャーゲームではないかと思う。複数の視点がそれぞれ独自に平面を作り、その視点相互が平行し交錯し時に合一することによって平面同士が交わり、立体を構成する。ただし「EVE burst error」は選択肢によって物語が分岐するのではなく1本道の物語なので、三次元的ゲームシステムとはいえないが。

 そうして四次元的ゲームシステムとは何かと考えを進めると、当然のように複数主人公視点をベースにし、プレイヤー自らゲーム内時間を指定してプレイするマルチエンディング型アドベンチャーゲームが導かれるだろう。時間と場所と複数主人公の存在と彼らの選択が時空間を構成するのだ。