実際僕らは"お兄ちゃん"だからな

 つまり僕は考える。というより妄想する。八神ココシナリオの中盤で第三視点が発現(プレイヤーが主人公から離れて独立)した時からノベルゲーム形式を捨て、時間指定・コマンド選択型アドベンチャーゲームに移行すべきではなかったか。ブリックヴィンケルとしてゲームの地表に降り立った僕らプレイヤーは、ヒロイン4人のシナリオを俯瞰的に表示した全体マップのなかからポイントを決定し、少年の視点を借りるかブリックヴィンケルとして行動するかを選択、時間を指定してさまざまな時空間に出現し、そこで「調べる」等のコマンドを駆使して八神ココの"カケラ"を集めていく。偏在的存在としての面目躍如である。そのヒントとなるべき要素は既に、ヒロイン4人のシナリオと全エンドを経験することで自ずと明らかになるように構成する。八神ココの"カケラ"が集まるにつれて彼女の謎と彼女たちの居場所が明らかになっていき、全ての"カケラ"が集まったとき、プレイヤーは、全くヒントのない状況の中から創造的な意思と操作で彼女らを救出していく…。

 少年の視点を借りないブリックヴィンケルのみの状態では一切言葉はしゃべらない。誰も自分のことは見えず、ものを動かしたり機器を操作したりすることはできず、ただ任意の時空間に出現し、「見る」「調べる」だけでゲームに介入する。ただし少年の視点を借りている場合は彼に意思を伝えることはできる。

 このシーンは同時に全シナリオ・全シーンについて主人公の演技が入った状態で"鑑賞"することができるモードも兼ね備えていて、4人のヒロインシナリオで特に印象に残ったシーンをプレイヤーの任意で再現することもできたりする。

 いや、一切言葉はしゃべらないブリックヴィンケルは、最後のあのシーンで一言しゃべる事を許される。それは別れの挨拶であり感謝と祝福のファンファーレであり"お兄ちゃん"としての責務でもある。ここまで読み進めてくれた兄弟であればそのセリフの内容はわかるはずだ。

 以上が僕が考えた、というより妄想した第三視点(四次元)的ゲームシステムによる本作品改造案である。

 読ませるべきところは読ませる、操作させるべきところは操作させる。ノベルゲームであってもその形式に固執していては将来性はないと僕は思う。もちろん物語には内在的に無限の可能性があるものだけれど。その物語によって四次元的存在として直接に迎え入れられることとなったプレイヤーなのだから、せめて物語上のフィクショナルな存在に終わらず、プレイヤーとして四次元存在的な活躍の場をゲームシステムによって与えられたいものだという欲求は至極健全なものだと思う。だってこの作品はゲームなのだから。