ゲームであってゲームでない アンビバレンツなゲーム性が目指すもの

 この作品は"ゲームではない"。そもそもゲームとは何なのか、ここでゲームの本質について論ずるのはほとんど不毛なので辞めるけれど、簡単に表現してしまうと、ゲームとは、プレイヤーが、ゲーム側の用意したデバイスを任意に駆使することによって、物語及びその世界に対して介入し、変質させることができるという公式を実施している、仮想的なインタラクティブチャンネルである、といえる。そしてこの「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品が本来的に指向しているゲームジャンルは、ノベル形式の美少女アドベンチャーであり、その一般的なゲームデバイスは、選択肢による分岐と繰り返しプレイである。通常このジャンルのゲーム作品であるならば、この2つのデバイスはまず使用できると断言してもいいくらい普遍的な装置なのだ。

 しかし当該作品において、この一般的なゲームデバイスは実施されていない。劇中に選択肢が発生することはなく、繰り返しプレイによってエンディングが変化するというようなことも、おそらくないのだろう。機能的な装置を欠いている時点で、この作品は実質的にゲームではない。ただ、概念的なゲームデバイスとして、プレイヤーがキーボードのEnterキーやマウスのクリックを押さなければ物語が先に進まないという公式は実施されているので(プレイヤーの入力なしで物語が自動で進行する『オートプレイ』という機能も実装されているが、そもそもその機能を使用するかしないかはプレイヤーが選択するのだ)、建前的にいえば、この作品はゲームである。そして何事よりも雄弁にこの作品がゲームであるということを物語っているのは、この作品を制作したkeyというメーカーが、ゲームメーカーであるということ、もしくは多くのプレイヤーにそう認識されているということであろう。

 つまり「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品は、ゲームであるにもかかわらずゲームではない。概念的にはゲームであるにもかかわらず機能的にはゲームではない。なにしろ僕らプレイヤーは、プレイヤーであるのに、この物語に対して、この世界に対して、この作品自体にたいして"なにもすることができない"のだから。この二律背反的なゲーム性が、作品テーマというものに絶対的な"救われなさ"を付与しているのだ。「読むだけ」という危機的なゲーム性状態を、ストーリーを純粋に楽しむことができるという表面的意味をもって再定義するだけではなく、作品の存在自体に対する構造的な演出技法として活用している、この点が、「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品を"ゲーム作品として"批評する際の、唯一にして無二のポイントなのではないだろうか。