テーマを普遍化するために用いられる冷酷な非ゲーム性

 この作品が機能的な意味においてもゲームであるのならば、作品で描かれているシーンはプロローグとして位置づけるはずではないだろうか。ヒロインの希望をその胸に受け継いだ主人公が、人類解放と地球再生のために立ち上がる、壮大で苛烈な大河ゲームが完成するはずだ。「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品が、プレイ開始当初より結末の予想がついたのと同じ次元において、僕が妄想するこの壮大なゲーム作品のエンディングもまた、「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品をプレイし終えた誰しもが望んでいるものになっていることを、僕は確信している。

 しかしそれが叶えられるようなことは、きっとないのだろう。この作品の潔癖性は、そのような大掛かりな救いさえ"安易なもの"として決して許してはくれないのだろうから。物語自体が描き出している徹底的な救われなさは、あってなきがごとしのゲーム性が構造的に究極化してしまっているのだ。

 そしてそれは、普遍性というベクトルを帯びてプレイヤーに届けられる、そう、静かに、怒涛のように。先に述べたように「ほしのゆめみ」と名付けられたロボットであるヒロインは、劇中はひたすらロボットであり続ける。心をもたないロボットとして描かれている。彼女が心をもっているように感じられるのは、主人公の心情ゆえであろう。その主人公ですら、名前はなく、ヒロインに名で呼ばれることはない。あくまで彼女は主人公のことを「お客さま」と呼ぶ。しかも美少女ノベルゲーム作品における一般的なゲームデバイスを欠いているこの作品においては、ヒロインの好感度が上がるような選択肢を選ぶことはできないし、何度プレイしたところでヒロインに心は生まれないだろう、主人公に対する(普遍性の対義語であるところの)個別的な恋とか愛とは無縁で、結末もきっと変わらない。

 「ほしのゆめみ」はあくまで、無名の主人公を介してプレイヤーという「お客さま」に対して語りかけているのであり、主人公の心情を察してあまりあるプレイヤーだけれども、彼の気持ちを汲んで行動を起こすことができず、このどうにもならないジレンマが、冷酷無比な普遍性というベクトルの存在を突き止める。そしてそのことに気づいたときにはもう、そのベクトルはプレイヤーの心に深く突き刺さっているのだ。

 2次元美少女が登場するゲーム作品であるならば当然のように報われるであろう、プレイヤーのほとんどがそう無条件で信じ込んでいる主人公のヒロインに対する想いは、ストイックなまでのロボット性と、どうしようとどうしようもない非ゲーム性によって敢然と拒絶される。主人公とヒロインの擬似恋愛的やりとりさえ刹那的な慰めとして忌避され、送り返された彼の想いは僕らプレイヤーが抱いているしかないのだ。しかも主人公は自らの想いが報われないことに対して、辛いとか悲しいといった気持ちを残して劇から去っていったわけではない。果たしてこれほど辛く悲しいことはないんじゃないだろうか、プレイヤーにとっては。