シリーズ宿命の演奏パートが奪った表現可能性

 「シンフォニック=レイン」という作品が、ミュージックアドベンチャーゲームと名づけられたシリーズに列なる作品であることの宿命として挿入される、コナミの「ビートマニア」を彷彿とさせるゲームパートは、「シンフォニック=レイン」という作品にとって果たして意味があったのだろうか。衝撃的で悲劇的な、非常に"重い"物語にとって、このゲームパートはどういった意味を持たせることができたのだろうか。僕にはそれが疑問に思わずにはいられない。
 そもそも演奏パートは、譜面通りに演奏することを目指して課させるものであるが、だいたい音楽学校に入学できるほどの技術力をもつ主人公が、譜面どおり演奏することなど何もプレイヤーが手助けせずとも難なくこなせるはずではないだろうか。それにこの物語において音楽技術が重要となってくることはなく、技術的に未熟であることや、練習によって向上しているといった描写がなされることもない。音楽技術面を超えた表現性・精神性が、フォルテールという楽器の特殊性により奏者である主人公の感情・精神状態と直結していることを基盤にして、物語はそのオリジナリティを構築している。
 ヒロインと一体になって音楽を演奏しているという感覚をプレイヤーに与える、演奏パートのゲーム性の意義は確かに良いと思う。であるならば、その演奏パートは卒業演奏に課される厳めしい課題曲として、その演奏にのみ限定し、同時に演奏されることになる自由曲に、各ヒロインのテーマに沿った岡崎律子さんの素晴らしいイメージソングを当てる。その自由曲を練習・演奏するシーンは、アンサンブルをする主人公とヒロインの心象風景、演奏を通した心の交流を中心に描写をすべきだったのではないだろうか。何枚かのイベント絵と組み合わせ、テキスト表示とページ送りを含めて全て岡崎律子さんのボーカル曲に連動させた演出として、演奏中はカラオケ映像か映画の字幕のように歌詞を表示させ、間奏シーンは主人公・ヒロインの心象描写に当てる。自由曲のアンサンブルシーンを音楽的に物語化するのだ。
 主人公の奏でるフォルテールという楽器は、奏者の感情を如実に反映するという設定だけれども、歌はそんなわざとらしい設定を持ち込まなくても、奏者の感情を如実に反映するものである。主人公によって奏でられるフォルテールの調べによって、ヒロインが何かを感じ、そのうえで奏でられるヒロインの歌声が、主人公に何かを感じさせる。そういった、この作品のオリジナリティである音楽を通した双方向の心の交流の描写が驚くほど少なく感じられたのが、シリーズ作品として宿命的に背負わされた演奏パートによるものであるなら、これほど悲しいことはない。